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ハイデガーの概念 「頽落」「気分」 「 配慮」 「迎合 」「気遣い」について(再掲)
本記事は2022年6月29日に投稿しましたが、目次を追記し再掲します。
轟孝夫(著)『ハイデガー存在と時間入門 』に基づいて、「頽落」「気分」 「 配慮」 「迎合 」「気遣い」を考えてみた。
頽落
ハイデガー が「 頽落」 と 呼ん で いる 現存在 の あり方 は、 ある 存在 者 を 他 の さまざま な 存在 者 との 関係 から 切り離された「実体」と捉えることにより、その存在者が周囲の存在者との関係において存在するという、出来事の一回性を見失った様態を指している。おのれ固有の状況を見失い、そのことによって、おのれの実存の固有性、個別性を喪失している状態のことである。
【私見】
ハイデガーによれば、平均的日常で営んでいることが、すでに頽落しているといういうわけである。例えば、無駄なおしゃべりしたりする空談、有名人のスキャンダルにすぐに飛びつく旺盛な好奇心、そして、教育問題、政治汚職、差別問題、その他の社会問題などが話題となったときの諸意見、主張、言説のあり方が曖昧であるが、それを頽落というわけである。
確かに、テレビなどで報じられている内容は、まさに空談と好奇心に満ち溢れていると、社会批判したくなるが、しかし、それは、いつでも誰でも自分の実存に関係なく言える「曖昧さ」をともなった社会批判ということになる。
ハイデガーによると、この問題の核心は人間の「本来性ー非本来性」となる。ところが、竹田青嗣氏は、ハイデガーのこの考え方は、現象学的ではないという。「今の世の中は矛盾だらけである、したがって、この世の中全体が堕落した、悪の世界なのだ」というようなことは、いわば出家主義的な発想と無縁ではない。ハイデガーの「頽落」の概念にはそういう危惧がつきまとっているというわけである。
気分
たしかに 現代 では、 人々 には 十分 な 余暇 が 与え られ、 その 余暇 を 楽しむ 手段 として の 娯楽 も 無数 に 与え られ て いる。 しかし そうした娯楽 こそ が、 皮相 な「 笑い」 や「 涙」、 ときには「 怒り」 を 生みだし、 また「 夢」 や「 希望」、「 勇気」 や「 感動」 を 惹起 すること によって、 気分 の 根源 的 な 自己 開示 から むしろ われわれ を 遠ざける。 この よう に 現存在 は 根源 的 な 気分 を 抑圧 する ため に 別 の 気分を調達してくるわけだが、こうしたことにも現存在が徹頭徹尾、気分的な存在であることが示されている。
【私見】
世にいう気ばらしとしては、酒を飲む、博打(競馬、競輪、パチンコ等)をする、テレビ、芝居、映画、歌、サッカー、野球等を観戦する、魚釣りをする、と数えあげるとキリがない。こうした気ばらしにより、英気を養って、また、明日からの仕事の原動力とするという、日常生活を繰り返しでは、気分の根源的な自己開示から逃げていることにしかならないのでは、ということである。
配慮
ハイデガーは、以上を念頭に置いて、現存在 は「 配慮 の 対象」 に 基づい て おのれ を 理解 する こと によって、 不可避 的 に「 他者 に対する 差異 の 気遣い」 に 巻き込まれていくことを指摘する。この「差異の気遣い」とは、具体的には他者との差を埋めることであったり、他者に対する遅れを取り戻すことであったり、他者に対する優位を維持することであったりする。
【私見】
人は他者にマウントを取りたがるのは当然だと言っているわけだ。もちろん、非本来的な人間性においてということになる。
気遣い
ハイデガーによると、「 ひと」 は 標準 性 を 気遣う。 つまり「 ひと」 にとって は 標準的 で ある こと が 大事 なの だ。 何 が よし とさ れ、 何 が よし とさ れ ない のか、何が成功と認められ、何がそう認められないのかといったことへの標準的な理解のうちにつねに「ひと」はとどまっている。そしてこの「ひと」は標準性を気遣う。つまり「ひと」にとっては標準的であることが大事なのだ。何がよしとされ、何がよしとされないのか、何 が 成功 と 認め られ、 何 が そう 認め られ ない のか といった こと への 標準的 な 理解 の うち に つねに「 ひと」 は とどまっ て いる。 そして この標準 性 が 何 を なし うるか、 また 何 が なさ れる べき かを 規定 し、 例外 的 な もの が 出しゃばら ない よう に 監視 する。 優れ た もの は 抑圧 さ れ、根源 的 な 事柄 は 一夜 の うち に なじみ の もの とさ れ、 苦労 し て 勝ち取ら れ た もの は 手ごろ な もの となり、 秘密 は その 力 を 失う。 この ように、「標準性の気遣い」のうちには「存在のあらゆる可能性の均等化」という現存在の傾向が示されている、そうハイデガーは指摘する。
【私見】
「世間を気にし」、「長い物には巻かれろ」、「出る杭は打たれる」という日本社会のことを揶揄しているのかと思っていると、西洋での社会のことであった。世界のどこでも「ひと」は同じなんだと、感心してしまった。
迎合
しかし 実際 には、 何 か に対して 責任 を 負う 人 は 誰 も い ない。 その 結果、「 現存在 の 日常 において は、 たいてい の こと は われわれが、 それ について 何もの でも なかっ た という もの から 生じ て いる」。 つまり われわれ が 普段 行っ て いる こと は、 その 大半が「 ひと が そう し て いる から」 なし て いる こと に すぎ ない の だ。「 ひと」 は この「 存在 の 重荷 の 除去」 によって、 楽 を し たい とか、気楽 で い たい という われわれ の 性向 に 迎合 し、 誘惑 し て くる。 こうした「 ひと」 の 性格 を、 ハイデガー は「 迎合」 と 呼ぶ。
【私見】
日本人なら、哲学者でなくとも、普通の人のほとんどが認識していることを、それこそ居酒屋で酔ったおっさん同士の会話でもででくるようなことを、ハイデガーは、もって回った言語を駆使して、探究しているのが可笑しくなってくる。『存在と時間』は、下巻を発行する予定だったが、轟氏が本書で説明しているように、事情があり、断念したようだが、こうした下世話なことを真面目に、探求している姿勢が、長年、人気を維持している原因となるのだろう。