読書会の記録:『最後の親鸞』(吉本隆明)/『歎異抄』(親鸞)

『最後の親鸞』『歎異抄』

本会では過去に宗教関連の書籍としてイスラムを取り上げることがあったが、今回は仏教、浄土真宗の宗祖、親鸞の『歎異抄』と、それを扱った吉本隆明の評伝『最後の親鸞』の二冊を取り上げた。

宗教書という扱いづらい題材からか、または偶然か、今回は女性陣が一人も参加することがなく、常連男性陣だけで粛々と会を進めた。

仏典のサブセット「南無阿弥陀仏」の開発者、親鸞
私自身『歎異抄』は3度は読んでいるが、いまだによくわからない。一方で会場では、私の「よくわからない」という意見に反する声が多く、むしろわかりやすいという意見が多かった。親鸞は関連書籍が多く、また日本人のメンタリティにもフィットした身近な宗教家である、ということもできるかもしれない。

副読本に親鸞の自著『教行信証』を読んだという参加者からは、『歎異抄』は弟子の唯円が筆記した言行録であり親鸞の思想を知るには情報不足という意見があがった。

私は、親鸞の教義である「絶対他力」に関し、なぜ人は他力に頼る必要があるのかとずっと疑問を持っていた。このヒントは、浄土真宗は鎌倉時代に繁栄した仏教だという点にあることを、この読書会で確認した。これがどんな時代かといえば、鴨長明の『方丈記』をイメージするとわかりやすい。社会も人心も荒廃し、飢餓や疫病が蔓延し、生きることが地獄の時代である。そして世の中を救う立場である僧侶たちは高尚な地位に上り詰め、民衆と宗教との間に大きな断絶があった。そんな時代だ。鴨長明はそのような世を捨てて、丘の上から俗世をひょうひょうと眺め、方丈にこもり、筆をしたため、淡々とレポートしていた。

人間は生きるためになにもなすすべがなく、唯一の救いである宗教も、難解なお経や教義を暗記する高度な知力、血筋、政治経済力の多寡により支配されていた。市民と断絶された世界に宗教家たちはいた。
そこに登場したのが、親鸞である。

親鸞は、明日をも知れぬ市民に向かい、難解で長大なお経など覚えなくてよいと断言する。南無阿弥陀仏と口で唱えるだけで万人は成仏すると説得する。いわば南無阿弥陀仏の六文字は長いお経の短縮版、サブセットである。この六文字の意味を理解する必要もない。ただ口に出して唱えているだけで誰もが必ず成仏するのである。生きるか死ぬかの瀬戸際を生きる市民は、ただ「信じることを学ぶ」ことが、生きるための最善のソリューションだった。文字の読み書きなどできない市民に信じてもらうことは、南無阿弥陀仏と唱えるだけで必ず成仏する、だけである。そのうえで、自分でなにかをすることなど考えず、「他力」に身を任せること。これにより極楽浄土に行ける。この辺の理論武装は『教行信証』に詳しく書かれている。

鎌倉仏教といえば親鸞のほか道元と日蓮がおなじみだが、前者は語学が達者な非常なインテリで大著『正法眼蔵』を著し、後者は南無妙法蓮華経という念仏をサブセットとして編み出し、政治にもコミットするという活動的な僧侶であった。鎌倉という人間が生きづらい時代であったからこそ、また中国大陸からさまざまな思想が輸入された時代であったからこそ、現代にも生きる「新興宗教」が同時多発的に生まれたのであろう。

信じ切ることのフレームワークを人びとに提示した宗教家
実はこの読書会、開いて10分ほどで結論めいたものが出てしまった。エンドまでの2時間は、ほぼその結論の枠を出ることがなかったので、最後にその内容を記しておく。

以下、常連メンバーである技術書の作家さんから出た意見がそれである。
「親鸞は“理解のジレンマ”を乗り越え、初心に帰り、人が信じ切ることのメカニズムを分解・再構築し、信じ切ることのフレームワークを人びとに提示した画期的宗教家」というのである。
それをご自身の仕事と重ね、技術書を書き続けていると学習効果で知識がつき、初心者に向けて本を書きたいのにもかかわらず、初心者時代の心を取り戻すことが困難になる、というエピソードを語ってくれた。鎌倉時代の宗教家も、学習過多で、まさにそういったジレンマに立たされていたはず、という解釈だ。
つまり、本来は市民の生きるためのよりどころであった宗教が、しだいに権力を保持するための道具になり、初心に帰ることなく、徐々に市民から遠ざかってしまった。それを親鸞という画期的宗教家が登場し、本来の姿に引っ張り戻した、というのである。
この話はまったく腑に落ちた。

親鸞は仏教思想の難解さを一定のロジックに従って徹底解体し、市民の心の中にまで染み入るまで、理屈抜きにとにかく信じ切られるレベルにまで、ブレイクダウンした人物なのである。

親鸞は日本人には人気の高い宗教家で、今回取り上げた吉本隆明のベストセラー『最後の親鸞』や、五木寛之、吉川英治の小説など方々で取り上げられている。親鸞は古くから多数の英雄伝説があり、僧侶が節をつけて芸能風に語る「節談説教」の有名な演題に『板敷山』がある。これは、親鸞が筑波の山中を歩いている最中、親鸞に弟子を奪われたという仇を持つ山伏に命を狙われるが、親鸞の超人的な運動能力と包容力で山伏は回心し、親鸞に帰依するという物語だ。『板敷山』は、CD音源として『唸る、語る、小沢昭一の世界「節談説教板敷山/榎物語」』で聞くことができる。

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