成長を再定義したい。
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私の大学生活4年間は、前半と後半で大きく色合いが変わっていたように思う。
大学2年生までは、わたしの「できる」をとにかくいかんなく発揮して、やりたいようにやっていた。
わたしの「できる」は、興味があることに対する情報収集力、求めている環境を嗅ぎつける直感力、そこに必ず飛び込むための行動力、飛び込んだ場で存在感を示しポジションを確立するためのコミュニケーション能力。
やりたいことにぴったりな学生団体を見つけ、入り、参加し、ポジションをとった。そこからの縁が広がって、自分たちでプロジェクトを立ち上げて、人を集めて、人を探して、実行した。それらとは違う環境が欲しくて、飛び出して、飛び込んだ。
やりたいことはなんでもやった。とにかくエネルギーがあったし、なんでもできた。それは、仮にできないことでもやってしまって、その精度は問わずとりあえずできたことにしていたから。
そして、大学3年生からは、「やらない」だらけの2年間だったのかもしれない。
大学2年生までの自分は、実はいろんなことができてなかったことに自覚的になった。
わたしはあきらかに数理的なものの考え方が苦手で、それをわかるまでじっと耐えることがどうしてもできなかった。それは割と小さいころからわかっていたが、例えば高校の授業ならそれが10数個ある科目のうちの1つとか2つとかで、なんだかんだ何とかなっていた。それなのに、苦手だとわかっていながら、大学2年生までの熱量で、それを専門とする分野に進んだ。どうしてもこの道に進みたいのだと信じていたかった。嫌で苦手なことをやり続けていることが、ある種自慢でもあった。そんな自分えらいでしょ、と思っていた。その結果、どうしても頭に入ってこない授業の割合が大きくなっていき、「できない」ことが当たり前になっていき、「やらない」ことに慣れた。単位は落としながら最終的に卒業できればいいやと開き直っていたし、研究室でも数理苦手キャラを定着させ、とにかく逃げた。
自分自身のあり方に対しても、あきらめがついていた。どちらかというとリーダー的なポジションをさせてもらうことが多く、生徒会だったり、部活のイベントの運営だったり、学生団体やプロジェクトの中心だったりを担っていた。しかし、わたしはいわゆる「マネジメント」の能力はないといっていいほど欠落していた。日程の調整、タスクの洗い出し、自分のタスク処理、グループのタスク管理、話し合いの進行、日常的な連絡、加えて書類の作成や提出。とにかく細やかでまめな作業とコンスタントなモチベーションの維持ができない。そして、私の横には、常にそれを超ハイレベルで頑張る人がいた。私は人生でこの人と一緒に取り組むことができてよかったなと思う2人が、この超ハイレベルで頑張る人、たちである。それまでの自分は、時に彼らに甘え、時に自分のできるでできないをぶん殴ることで処理(できたことに)しながらも、どこかで彼らのことを疎み、羨み、憧れていたのかもしれない。彼らのスキルを少しでも取り入れることが私にとっての成長だった。しかし、大学3年生になる少し前くらいから、私は彼らにはなれないけれども、彼らと組めば最強、という思考に移行していた。だから、彼らと同じポジションへ行くことを避け、自分にできることだけをとことんやった。その結果、できないを打破しようというモチベーションがなくなり、自分の生まれ持った少しだけ得意なことにあぐらをかくようになった。また、彼らがいない場で彼らと似たような役回りをするときには、わたしは苦手なことをやらされている、えらいでしょ、という、勉強に対してのそれと同じ態度を示すようになった。
あともうひとつ言えるのは、私は基本的に深く知りたい、という欲求が小さいことがわかった。例えば、写真はカメラを買ってぱしゃぱしゃできたら満足だし、料理はレシピ見ておいしい料理が作れたら満足。だから、あんなに憧れてたこの分野も、ちょっと片鱗に触って、それでもう満足しているのだと思う。だから、なんとしてでもという強い気持ちも、力も、出てこない。
そして、今。就活が始まる。てかもう始まってる。
やらないに慣れ、やりたいを忘れてしまって、空っぽの自分。
「何者」を見て、図星だと感じた自分。
強い力で未来を切り開き、勝ち取った友人たちの姿と対照的に、とりあえず院進する自分の弱さと不安から目を背けるために、周囲の人たちのことを冷笑し、あらさがしをしている自分。
もうやめにしたい。
できないをできる方法を身に着け、言い訳をしないようになりたい。
自分のやりたいを取り戻し、あるいは新たに手にし、それにどん欲になりたい。
逃げ道じゃなくて、進路を探したい。
成長を再定義したい。
やわらかであたたかな1日になりますように。
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