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他人の目を気にしながら生きてきたこれまで
私は自分の思っていること、言いたいこと、特に、
いやだ、きらいだ、~してほしくない、~したく
ない、という感情を表に出すことが苦手でした。
今もまだ苦手意識はありますが、そういった感情を
表に出すことは、他人の気分を害することだ。
なにか嫌なことがあっても、自分が我慢すれば、
関わる人と気まずくなることはなく、物事がうまく
運んでいく方が大事と考えていました。
そうやって自分のことよりも、他人や自分のまわり
のことを考え、優先させることがいいことだとさえ
思っていました。
しかし、自分より他人を優先したところで、
いいことはありませんでした。
いいことどころか、昨年ついに心を病みました。
自他共に認める真面目な性格で、真面目に生きて
いれば他人から認められ、誰かのために尽くすことが、人々から賞賛され、よい人間のすることだと
考え、ひたすら自分の身を削ってきたのに、
なぜ自分が心を病み、苦しまなければいけないのか。
落胆や悲しみ、失望や、こんな仕打ちはあんまりだ、おかしい、あるいは、自分のこれまでの行いが報われないなら、生きていても仕方ない、と考えることもありました。
そんな自分が、いつから他人の目を気にするようになったかを振り返ってみると、幼少期に遡ると気づきました。
両親の仲はお世辞にもいいとは言えず、私が近くにいても、構わず取っ組み合いの喧嘩を平気でする
ような感じで、小さい頃は、ただ見ていることしかできませんでした。
そうしているうちに、親の顔色や機嫌を伺うようになっていきました。
今話しかけても大丈夫か、イライラしていないか、
自分が言ったことを聞いて嫌な顔をしていないか
など、自分のことよりも、親のことを気にかける
ようになっていったのだと今では思います。
そうやって親の顔色を伺うことが当たり前になってしまい、親に対してだけでなく、親以外の大人(教師等)や友人などの他人に対しても、顔色を伺うように
なっていったのです。
他人の機嫌を損ねないように常に気を配り、
なにより自分がそういうことをしないように
しなければならない、親に迷惑をかけては
ならない、と言い聞かせるようになっていった
ことが現在まで続き、自分を苦しめてきたのだ
と気づきました。
なぜ気づくことができたのか。
自分の外側ではなく、自分の内側に意識を向け、
自分自身と向き合ったからだと思います。
今までは、自分のことはないがしろにして、他人の目を気にして、他人のために尽くしてきたことを、
自分がいまどうしたいか、なにをやりたくないか、
"自分は"ということを中心に考えてみるようにしました。
そうすることで、少なくとも自分が行きたくない、押さえつけられ、不自由や息苦しさの原因となっていると感じている会社を辞めよう。
そして、日々の暮らしで生きづらさや息苦しさを
感じたり、自分よりも他人という風に、自己犠牲的に身を削っていることが正しいと思い込まされて
いる人、本当はこうしたいと思っているのに、他人から押さえつけられる、あるいは、自分で押さえ
つけてしまっている人に、そんなことをする必要は
ない。
もっと自分らしく生きられることを考えて生きて ほしい、という想いを伝えていきたい。
それを今後の自分の仕事にしていきたい。
そんな風に考えることができるようになりました。
今はまだなにもなし得てはいませんが、少しずつ
でも、自分の想いを実現するために歩んでいこうと考えています。