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「公共」という概念がない日本
私が電車に乗っているとき、
向かいの席に座る女性3人組が、
まわりに他の乗客がいるにもかからわず、
以下のような会話をしていました。
痛い痛いって言いながら運ばれてきて、
今までで一番痛かった痛みが10だとしたら、
今どれくらいですか?、って聞いたら、
"7"って答えてさ、キャハハ
(中略)
でもまさか死ぬとは思わなかったよなぁ、キャハハ
女性達が医療関係の人達なのかはわかりませんし、
私がどうこう言うつもりはありませんが、
正直聞かされていい気分はしませんでした。
聞くつもりはなくても聞こえてくるくらいの声で、
平気な顔をして、笑いながら話していたので、
耳に入ってしまいました。
少し嫌な気持ちになりつつ、
やっぱり、日本には、「公共の場」というものは
なく、あるのは「世間」なんだなと思いました。
電車やバスなどを公共交通機関、
学校や図書館、公園などを公共の場と呼び、
ルールやマナーを守って利用することが求められています。
しかし、公共交通機関、公共の場という、
枠の中には、いくつもの「世間」が存在します。
たとえば、電車であれば、
先ほどの女性達のような、
グループ内の「世間」、
同じ家族という「世間」、
同じ学校の学生同士の「世間」、
同じ会社の同僚や先輩・後輩という「世間」、
などがあります。
そして、それぞれの「世間」は、
"排他的で差別的"です。
つまり、自分と同じ「世間」にいる人に対しては、
気を配るけど、自分が所属している「世間」の外にいる人たちのことは、まるで存在しないかのように、"無関心"になれる、ということです。
ルールやマナーを守りましょう、とは言いますが、
元々、私達は、自分に関係のある世界である、
「世間」に所属し「世間」で育ってきているので、
「公共」という意識がないのです。
だから、電車やバスなどで、
誰が聞いているかもわからないのに、
雑談や、時に誰かの悪口や愚痴などの「世間話」ができるし、席に座れたかもしれない人が目の前に
いたとしても、自分の知らない他人のことには
構わず、自分に関係ある人のために、席を取って
おいたりするのです。
同じ「世間」の中にいる人にとっては、
自分の愚痴を聞いてくれる人や、
自分のために席を取っておいてくれた人は、
"いい人"、になります。
一方で、「世間」の外にいる人にとっては、
不快なことを言う人、
座りたいのに座らせない"迷惑な人"になってしまうのです。
これは個人の意識やマナーの問題ではなく、
そもそも、日本にある「世間」の問題です。
なぜなら、「世間」には、
同じ「世間」の中にいる人たちとの付き合い方にはルールがあっても、「世間」の外にいる人達、
赤の他人については、そもそも眼中になく、
「どうでもいい」、と考えていているので、
赤の他人との付き合い方についてルールは
ないのです。
思いやりや気遣い、おもてなし、などが、
日本の美徳、日本人の素晴らしい点として
語られますが、それは"同じ「世間」に所属して
いる、自分に関係のある人に対して"、という、
前提条件つきのものなのです。
そもそも、「世間」は、
"自分が何かをしたら相手から見返りをもらえる"、
"自分が何かをしてもらったら相手にお返しを
する"、という、贈与・互酬関係が前提だからです。
だからこそ、
なんの見返りもなく、見返りも求めない、
という綺麗事は、誰もが憧れ称賛しますが、
残念ながら実際にはほとんど存在しないのです。
聞いたら「そんなの当たり前だ」、
と思うほどに、私達は「世間」での生き方に
慣れているのです。
日本は建前と本音の国と言われますが、
「公共」は建前で、本音は「世間」にあるのです。
電車やバス、学校や図書館、公園などでも、
日本人が好きな"みんな一緒"ではなく、
同じ「世間」ごとに固まり、「世間」の中で
完結し、知らない人は排除しようとするのです。
時には、
「公共」という場のルールに合わせるのではなく、
いくつもある「世間」の中で、より力の強い
「世間」が、自分達の所属している「世間」の
ルールを、「公共」のルールにしようとして、
「公共」の中での主導権を握ろうとすることも
あるのです。
SNSもある意味「公共」です。
最近某カップうどんのCMがSNS上で話題に
なりましたが、あれもSNSという「公共」に、
「頬を赤らめながらうどんを食べるのは性的だ」、
と考える人間が属している「世間」のルールを持ち込もうとして、「公共」の中で、
自分のいる「世間」を多数派にしようとしたから
です。
自分の所属している「世間」を、
SNSという「公共」に持ち込もうとするのは、
そもそも、「公共」という場に合わせようとするのではなく、自分がいる「世間」を前提にして、
「公共」を捻じ曲げようとするからです。
そういう人間達にとっては、
"自分のいる「世間」=「この世の全て」"、
つまり、"みんな一緒"なのです。
だから誰かに批判されたり、疑問を呈されたりすると、逆ギレしたり、誹謗中傷したり、過激な攻撃になるのです。
いずれにしても、私達の中には、
「公共」という建前はあっても、実際のところは、
「世間」があり、「世間」で生きているのです。
"見返りを求めない"、"みんな一緒"、
などが綺麗事で、実際にはそうではないと
思わせるのも「世間」なのです。
「公共」について何かを言うのではなく、
何かを変えたいと思うのであれば、
「世間」のことを知ることからはじめるのがいいのではないかと考えています。
皆さんは「公共」や「世間」について、
どのように考えるでしょうか。
ここまでお読みいただきありがとうございました。