私がフロンターレサポーターになった日:金子達仁、戸塚啓、中西哲生『魂の叫び:J2聖戦記』(1999年)
川崎フロンターレの一般的なイメージは何だろう?
毎年のように優勝争いをしている強豪、試合巧者、圧倒的な得点力、ショートパスを軸にしたポゼッションサッカーといったところだろうか。
どれもその通りだが、もうすこし詳しい人だと、大卒選手が多い、代表選手が少ない、ACLでいまいち、ファンサービス重視のフロント、といったあたりが出てくるだろうか。
あるいは、少し前まではシルバーコレクターだったとか、惜しいところでいつも涙をのんできたとか、そういうことを覚えている人もいるだろう。
自分は、そんなフロンターレのサポーターだ。そうなったきっかけがすべて、この本に書かれている。
私事だが、1998年から2000年まで、元住吉周辺に住んでいた。その頃、自分は、Jリーグのひいきチームを探していた。
自分はスポーツジャンキーを自認しているが、長い間野球とラグビーしか見てこなかった。それが、1996年のアトランタ五輪の時、「マイアミの奇跡」をたまたまテレビ観戦して、サッカーも見るようになった。
このときは、野球の日本対キューバか日本対アメリカの試合を見終わって、ブラジル戦にチャンネルを変えたのを覚えている。そのとき既に1-0でリードしていて、「ブラジル相手にリード??」と思ってそのままタイムアップまで見た。
それからナイジェリア戦とハンガリー戦も見て、「サッカーも面白いな」と思い、Jリーグも見ることにした。ただ、どうせ見るなら、ちゃんと「好きなチーム」を作りたい、そう思いながらも、どこかのチームを好きになる決め手もなく、何年かが経ってしまった。
元住吉に住んだのはそんなときだった。
当時は、隣の駅、武蔵小杉から歩いて行ける等々力をホームにするチームが二つあった。ヴェルディ川崎と川崎フロンターレだ。パリーグファンであり、読売ジャイアンツが好きではない自分にとって、ヴェルディのファンになることはあり得ず、自然と川崎フロンターレに関心を持つようになった。
明確にファンとなる「最後の一押し」となったのが、1998年11月19日に行われた、J1参入決定戦だった。
これは、最終的には入れ替えに至る何試合かの初戦。当時まだJFLと呼ばれていた二部リーグの川崎フロンターレと、当時単に「Jリーグ」と呼ばれていた一部リーグのアビスパ福岡との対決だった。この試合は、「博多の森の悲劇」と呼ばれる劇的な試合だった。
テレビ中継もあったと思うが、その試合を見た記憶はない。ただ、翌日の新聞で、惜しくも敗れたことを知っただけだ。勝利が必要だったフロンターレは、2-1とリードしていたが、後半ロスタイムに同点ゴールをたたき込まれ、延長戦で敗れてしまったのだ。
数ヶ月後、当時毎号買っていた『Number』で、金子達仁氏が書いた「神を見た夜」を読んで、どんな試合だったのかを詳しく知った。
この『Number』は、今でも捨てていない。
そしてはっきりと、自分は川崎フロンターレのファンになった。
金子達仁、戸塚啓、中西哲生3名の手による『魂の叫び:J2聖戦記』は、「博多の森の悲劇」の翌年、1999年にJ2を制してJ1に上がろうとするフロンターレの苦闘を描いたものだ。
中村憲剛に引き継がれた14番を背負う初代「ミスターフロンターレ」こと中西哲生が中心。物語は、中西の一人称と、戸塚啓が描く三人称とを織り混ぜながら、1999年のJ2の1シーズンを試合ごとに振り返ってゆく。
大分トリニータのウィル、FC東京のアマラオや藤山竜仁といった懐かしい名前も出てくる。
この年の試合、何試合かは見に行った記憶がある。まだ武蔵小杉にはタワマンは建っておらず、等々力は改装前でメインスタンドがとても小さかった。そしてガラガラだった。
J2を知っているサッカーファンなら誰でも知っていることだが、J2は二部ではあっても楽なリーグではない。この年のフロンターレも、宿敵FC東京、そして岡田武史率いるコンサドーレ札幌との戦いだけでなく、様々な相手に苦戦していく。
初勝利は開幕から5試合目。そのあと監督交代に至り、チームは盛り返していく。そして11月5日、ついに昇格が決定した。
そのとき、中西哲生は泣かなかったそうだ。
そして涙が出なかったもう一つの理由は、J2に対する責任感だと思う。
来シーズンのJ1にフロンターレ旋風を巻き起こすことが、他のJ2のチームに対しての礼儀だろうし、このJ2リーグこそが、いまの日本サッカー界において、足りない部分を補う大きなカギだとぼくは思っている。それくらい、どのチームの選手も一試合一試合に賭けているものは大きい。
こんな素晴らしいリーグがあることを、日本中の人々に知ってもらいたい。そのためにも来シーズン、自分たちがJ1で結果を出すことだ
「勝者のメンタリティ」を重視する金子達仁は、「悔しさを知る」フロンターレへの期待を語る。「博多の森の悲劇」を経験し、J2の過酷なリーグ戦の中で成長した川崎フロンターレが、当時「ぬるま湯」となりつつあったJ1を変えるのではないのかとの思いを綴った。
フロンターレと中西哲生の持つ責任は重大である。2000年のJ1で彼らが活躍すれば、勝利への執着心がどれほど大切な者か、「天国と地獄」が日常的に存在する世界で戦うことがどれほど選手の実力を伸ばすものなのか、ファンは改めて知ることになる。彼らが惨敗すれば・・・・ヨーロッパや南米のリーグに追いつき、追い越す日は、また少し先送りされてしまうだろう。
しかし、昔からのフロサポならよく知っているとおり、2000年のフロンターレは、監督を代え、中西哲生は冷遇され、わずか1年でJ2落ちしてしまう。そのあとも、2003年には勝ち点1の差で昇格を逃し、ようやく2004年にJ1に戻ってくる。
それから、着実にチーム力を付けて、優勝争いにも加わるようになるが、リーグ戦でも、カップ戦でも、あと一歩で栄冠に届かない経験を繰り返しながらフロンターレは歩んできた。J1リーグ戦2位3回、3位2回。カップ戦準優勝5回。
そう、フロンターレの歴史は、悔しさの歴史でもある。だからいまでも思う。一点の重さ、一秒の重さを忘れてはいけないって。
『魂の叫び』を読んだのはほぼ20年ぶり。あとがきまで読み通して、最後の数段落が心に残った。
フロンターレを知ったことで、私は日本のサッカーの未来を以前よりは明るく捉えることができるようになった。
しかし、J1で勝てなければ意味がない。
中西哲生はわかっている。彼は、昇格を決めた夜に泣かなかった。おそらくは、他の選手も同様だろう。ただ、サッカーはメンタリティの違いだけで勝てるものではない。フロンターレがJ1で活躍するためには、まだまだ直さなければならないところがたくさんある。日本でもまれなほどの強いメンタリティを持ち合わせた集団には、日本でも稀なほど高いレベルでの戦術と技術、ファンタジーを望みたい。それが実現する日まで、感謝の言葉は封印しておきたい。
彼らがJ1を制するその日まで。
1999年11月24日
フロンターレがJ1を制したのは、その18年後のことだった。「博多の森の悲劇」のあともなお、それだけの悔しさを積み重ねていく必要があった。
しかし、大きな関門を超えたフロンターレは、そのあと連覇を成し遂げ、今年も圧倒的な成績を残している。「日本でも稀なほど高いレベルでの戦術と技術、ファンタジー」とともに。