雑草の夢

本日は「雑草」について、お話ししたいと思います。

実は、しばらくこれについて書いてみようと思っていたのですが、ふと本棚をみていたら、(以前講演原稿を翻訳したことがある)ブルガリアの比較文学者デンニッツァ・ガブラコヴァさんの博士論文『雑草の夢 近代日本における「故郷」と「希望」』(世織書房、2012年)が目に入り、「よし、タイトルはこれでいこう!」となったわけです。

しかし、おそらく、ガブラコヴァさんは「雑草」という主題にある種の脱構築批評の切り口を見出そうとしておられる。これに対し、わたしのこの「雑文」はもう少しベタに(苦笑)、雑草論になるかと思います。

それでは、どうぞ!

さて、「雑草」について思いをはせていたのは単純な理由で、いま、週に一度、雑草を抜くアルバイトをしているのです。具体的には、さるマンションの庭にある植木のなかのドクダミなどを抜き、ごみ袋にまとめるだけなのですが、これはこれで面白いわけです(いくつか前の「清掃の哲学」もご参照ください)。何が面白いか、順にみていきたいと思います。

まず、「雑草とは何か?」という問題があります。基本的には、人為的に育てている植物ではなく、勝手に生えてきて、庭の景観を乱す植物ということになるかと思います。例えば、単純に、「緑」の色が違う。印象派の絵画などを見慣れているわたしとしてはグラデーションがあった方が美しいのではないかとか思うのですが(笑)、都会の平凡な庭にはグラデーションはいらないということのようです。

次に、「雑草は簡単に抜ける」という問題があります。上述のように、そこの全体に合わない「緑」を抜いていくのですが、ぱっとみ、散在していて大変そうにみえる。しかし、やり始めると、蔓でつながっており、するする除去できるのです。ある種「身体的な快楽」があるわけですね(笑)。雑草抜きとかいうと「大変そうね」とか「ごくろうさま」という話になるのですが、実際には、大半の雑草は簡単に抜けます。どんどん勝手に生えていくという力強い生命力を保持している割には、結構「弱弱しい」面もあるわけです。雑草の「ヴァルネラビリティ」とでも言っておきましょう。

では、この仕事の何が「大変」か? 筋肉痛です(苦笑)。当たり前ですが、雑草を抜くには身体をかがめ、身を地面に近づけなければならない。大した動作ではないと思うのですが、普段、家でグダグダしている現代人としては、それだけでも「運動」になるわけです。雑草は簡単に抜ける(=力が要らない)が身体を動かすことには多大な力が必要なわけです。単に運動不足なだけかもしれませんが(苦笑)。

(しかし、人間というのは赤ん坊のころは地面の上でハイハイしているけれど、大人になると立って歩き、「高い位置」に視点を置くわけです。ある種、この誇張が、サルトルの文学・思想における「見下ろす」という配置であると言ってもいい。これに対し、バタイユは地面に近い「足の親指」に注目するわけです。雑草を抜くという運動も、ある意味では、サルトル的な「主体の哲学」からの脱却につながるのではないでしょうか?)

いずれにせよ、雑草を抜くというのは「文化と自然」のあいだに身を置く経験と言えるでしょう。で、やはり、植物にせよ、土にせよ、「自然」に触れるというのは悪い経験ではないわけです。最初、指導をしてくれた上司は「ドクダミは臭くて仕方ない」とか言ってましたが、個人的には必ずしもそうとは思わない。緑の香りがして「良い」わけです――ここには、もちろん、「香り=匂い」の哲学の余地もあるでしょう。「いい香り」と「臭い(くさい)」はときとして決定不可能です。

哲学・思想の歴史では、長らく「人間中心主義」の傾向がありましたが、20世紀末頃から「動物の哲学」が本格的に再考されるようになります。その延長で、「植物の哲学」も再検討され始めていると聞きます。これは、確かに、面白そうな分野ですよね。ふと、ソローの『森の生活』や阿部和重さんの『ピストルズ』なんかが頭に浮かびます。美術館にある絵画はある程度見てしまうと飽きてしまうけれど、道でふとみかける花は毎日みても飽きない、というようなこともあります。生け花や庭園など、日本文化における植物なんていうのも、やはり、興味深いですよね――「紋切型」になりますが!

表象文化論の彼岸に、「緑」があるわけです。例によって唐突ですが、本日はここまでにいたします。

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