牛の犠牲

さて、少し間が空きましたが、今日は、「牛の犠牲」について、お話させていただきたいと思います。といいつつ、タイトルだけ決めて、あとはいつも通り、即興です。それでは、どうぞ!

まず、「牛の犠牲」という表現にはオリジナルがあります。わたしが翻訳しているフランスの詩人フィリップ・ベックさんの作品にSacrifice du boeufというものがあるわけです。ベックさんについては、『多様体』4号の小特集で詳しく書いていますので、そちらをご参照ください。

そもそも、「犠牲」という表現には、「犠」にも「牲」にも「牛」が含まれているわけです。手持ちの大修館『新漢和辞典』をみても、このふたつの漢字のあいだには対して違いはないようです。いずれも「いけにへ」という意味のようです。どうして「義」と「生」を使うのか? それはそれで気になりますが、とりあえず置いておきます。(笑)

何となくのイメージとして、「犠牲」の動物といえば「羊」のイメージがありますが、これは、西洋の伝統なのかもしれません。実際、日本語には「犠牛」(ぎぎゅう)という表現もあるそうです。とにかく、昔の人は身近な動物を神に捧げたということなのでしょう。

それで、「牛の犠牲」ということに注目したのは、すでに書いた通り、フィリップ・ベックさんの仕事を念頭に置いています。ベックさんは、いくつかの作品で、「牛耕式」という古代のエクリチュールの形式に注目しています。これは、Wikipediaなどで見ていただければいいと思うのですが、文章を書く際、まず左から右に書いたら、改行時、今度は右から左に書くという形式です。牛が犂を引く運動とそっくりなので、boustrophedon「牛耕式」と呼ばれるそうです。

さて、ここからが面白いのですが、この牛が「改行」する際の運動を、ラテン語でversuraと言ったらしいのです。これは、オンラインのラテン語辞典などをみても調べがつくと思います。で、ここにvers(英語ならverse)との関連が見られるというわけです。つまり、「韻文」のことです(ちなみに、フランス語では前置詞vers「~の方に」も関連はあるそうです)。現代語だと、reverse「逆転」などの方がイメージがつかみやすいかもしれません。

つまり、深い関係があるのかどうかはわからないのですが(笑)、少なくともベックさんの詩的想像においては、「韻文=詩」の営みが「牛の犠牲」のもとに成り立っている、ということになるわけです。だからどうということもないのですが(笑)、こういう発想で様々な作品が書かれていきます。牛の他には、アメンボなんかも出てきます(これは、コウルリッジの『ビオグラフィア・リテラリア』を下敷きにしていると言っていた気がします)。

「動物」というのは、昨今の哲学研究や文学研究でホットなテーマです(若干やりつくされた気もしますが…)。そもそも、普通に考えれば「人間」は「話す動物」です。では、「話さない人間」は「動物」なのか?などという問いも生まれるわけです。実際、サルトルのフローベール論『家の馬鹿息子』はこうした発想に支えられている部分があります――のちに世界的作家になるフローベールが、幼少時代、言葉を覚えるのに苦労したというエピソードがあるわけです。ここから、「家の馬鹿息子」という主題が出てくるのですが、フランス語においては、bêteという表現が「動物」という名詞、そして「愚かな」という形容詞を同時に表現するので、このふたつの意味が連関するような部分があるのです。この問題については、『差異と反復』のドゥルーズなんかも問題にしていますし、蓮實重彦氏の『凡庸な芸術家の肖像』もこれを踏まえています。哲学的な動物論としては、メキシコのデリダ研究者パトリック・ロレッドが拘っていますが、リストの音楽にもある「小鳥に説教するアッシジの聖フランチェスコ」なんかも関わってきます。

例によって話が拡散しました。で、別に「落ち」はありません。(苦笑)ただ、「犠牲」という問題についてはすでに哲学的蓄積があります。ベックさんの先生だったジャック・デリダの『死を与える』では名高い「イサク奉献」が論じられます。デリダ研究者の高橋哲哉氏にも、「犠牲」をめぐる一連の論考があります――『国家と犠牲』は一読をお薦めします。とりわけ日本の「物語」には「犠牲」の美化が散見されるのです。凡庸な例を挙げれば、ONE PIECEなんかでも、これが前景化してきます(特に「倭の国」編で顕著です!)。ベックさんも、おそらく、「牛の犠牲」を書いた時点でデリダの「犠牲」論は知っていたんじゃないかと思いますけどね…。出版年的に微妙なところです。ただ、いずれにせよ、「羊の犠牲」ではなく、「牛の犠牲」というところにアクセントを置いたのは意図的な選択だったのではないかと思います。まさか、それが、漢字の成り立ちと響き合うとは思っていなかったと思いますが!

しかし考えてみれば、「犠牲」の「犠」から「牛」を取ると、「義」になる。で、これは「義足」などにみられるように「仮の~」というニュアンスを持ちます。フランス語で言うとprothèseの問題になる。ある種の「技術論」、デリダ風に言うと「代補」の問題にもなりそうです。ところで、「犠牲」という表現を、ドイツ語ではOpferと言います。これは語源を調べると、「作品」を意味するラテン語のopusに由来するそうです。「作品としての犠牲」。バッハの『音楽の捧げもの』(Musikalisches Opfer)を思い返してもいい。opusの複数形が「オペラ」ですし、ベックさんには、ランボーを踏まえた『オペラディック』という詩集もあります。

すごく乱暴にまとめますが、デリダやベックが考えていたのは、或いは、こうした「義」(「犠」)の問題だったのではないか? 「仮」のものであり、サルトル風に言えば、「アナロゴン」ということでもあるかもしれない。これが、まさに、「表象文化論」の根本問題だったのではないか、等と思いいたるわけです。そう考えると、デリダの初期の『グラマトロジー~』と『死を与える』あたりが繋がって見えてくる? とか夢想しますが、まあ、そこまで難易度の高い「手離し技」をすることもないでしょう…。

色々書きましたが、「牛の犠牲」ということでは色々と言うことができるはずです。わたしは、最近、松屋とマクドで朝ごはんを食べることが多いですが、毎日躊躇なく、牛を食べているわけです。(苦笑) ベックさんからも、(動物倫理の書がある)ガルシアさんからも、怒られてしまうかもしれませんが!

それでは、本日は以上にいたします。

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