わたしが会ったさびしい人
どうも、栗脇です。今日は「問題」についてではなく、「人」について書いてみたいと思います。具体的には、数日前に「お茶」をした増田一夫さんについて。
増田さんはわたしが卒業した学部のフランス語教員のひとりであり、わたし自身、学部以来、何度かの授業を受けたことがあります。ですので増田さんもまた、わたしにとっては「増田先生」であります。基本的には。覚えている限りで書けば、確か、学部生のころに1)フランスにおける「ライシテ」の主題に関する講義と、2)ジャック・デリダの『声と現象』に関する導入を、大学院に上がった後で3)サルトルやバルト、メルロ=ポンティを購読する授業(「中性性」という概念が扱われたのをふと思い出しました)と4)デリダのインタビューを購読するセミネールを、受講した記憶があります。
博士課程進学以後は授業は受けていないと思いますが、ちょうどわたしがD1のときに日仏哲学会の大会が東大駒場で開かれ、そのときの取りまとめ役が増田さんだったかと思います。わたし自身、サルトルの『存在と無』に関する拙い研究発表を行ったわけですが、増田さんが「つなぎ」の役目を担ってくださり、質問をして下さったのも印象的でした――サルトルの哲学では「羞恥」というのがキーワードのひとつですが、フランス語にはhonteとpudeurがあり、それは微妙に違うんだ、というようなことを懇親会の場で雑談したりもしました。その懇親会では、オーガナイザーの増田さんがフランス語で挨拶をするような場面もあったのですが、おそらくは日本国内で一番巧みにフランス語を扱う方々のひとりでおられる増田さんが大変に綺麗な発音でエスプリに富んだ挨拶をされたのは、ホーム校の参加者として、少し誇らしく思ったりしました。
さて、そういう大学的=学会的な付き合いが増田さんとはあったわけですが、個人的に多少親しく付き合うようになったのにはふたつの理由があったように思います。
まず、増田さんはわたしの家人の指導教員でした。入籍する前から我々を「カップル」として認知していて下さり、それとなく注意を払ってくださっていたのです――指導学生の女子生徒がボーイフレンドから妙な影響を受けぬよう、それとなく監視していたということもあったかもしれませんが。ですので、増田さんはわたしの直接の指導教員(≒父)ではなかったものの、いわば大学的な意味において「伯父」であったということも不可能ではないかもしれません。「ぼくの伯父さん」(ジャック・タチ)としての増田一夫。「伯父ー甥」という斜めの関係性がある種の「創造性」につながる可能性を秘めているということは、多くの方が一応は納得して下さるのではないかと思います。(反対に、「父ー息子」関係というのは「不穏」なのです。ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』や、それを論じるフロイトの論考などを思い出してもいいかもしれませんが。)
こうした「斜めの関係性」は、その後、博士課程進学後、さらにいえば駒場を離れフランスに留学した後に強化されることになります。駒場のフランス語部会にはとある学生論文集があり、学生の論文を教員に「査読」してもらうことで共同作業を行っているのですが、ある一時期、わたしはその学生側の責任者のような立場を務めており、その際に教員側の窓口を担当して下さっていた増田さんと密に話すことが何度かあったのでした。学生の提案で計画したミシェル・ウエルベック特集の是非を議論したり、(予算が尽きたために)電子化しなければならなくなった雑誌の行方を云々したり、せいぜい1~2年のことだったとは思いますが、学生の身分でありながら、割と密に、教員が担当する教育=研究の制度作りにかかわるような仕事に従事することができたのでした。
(その頃、わたし自身はリヨン第3大学哲学科にいたのですが、わたしのいた学科の責任者マウロ・カルボーネが増田さんの古い友人であったこともなかなか不思議な縁でした。カルボーネはメルロ=ポンティ研究で知られるイタリア人哲学者で、もともとメルロの研究から出発した増田さんのフランス語論文をイタリア語に翻訳したりもしていたそう。あるいはカルボーネも、「ぼくの伯父さん」のひとりであり、「わたしが会ったさびしい人」だったかもしれませんが…。)
さて、そろそろ話をまとめましょう。上記のような文脈で、もう10数年にわたり増田さんと付き合ってきたわけですが、実はここ数年、いよいよ具体的に増田さんと「接近」するようになったのです。メルロから出発した増田さんは、ある時期以降、メルロ以後のフランスの哲学者ジャック・デリダの「研究」――と言ってしまうと少し語弊があるかもしれませんが、しかし――に従事するようになりました。わたしの分類では、鵜飼哲さんや高橋哲哉さんらと並び、日本のデリダ研究の「第二世代」を牽引したのが増田さんです。複数の特集号の編者を務めるほか、デリダの代表的著作の一冊『マルクスの亡霊』の訳者でもあります――この著作に登場するhantologieという鞄語に「憑在論」という素晴らしい訳語を発明したのは、おそらく、増田さんではないかと思います。また、デリダをめぐるスリジー・ラ・サルのコロックに(おそらく)二度参加し、折口信夫やハンナ・アレントに関する発表をされてもいます――日本のデリダ研究は「常にすでに」世界水準にあったとみることもできるでしょう。
ひとことで言えば、サルトル研究を掲げ博士課程に進学したわたしは、増田さんに感化され、デリダに「浮気」をするようになったのでした――必ずしも増田さんだけではないのですが、しかし、増田さんの介入は大きい。色々見方があるでしょうから詳細は書きませんが、「日本語では誰の入門書がいい」とか、「誰それの翻訳は買わない方がいい」とか(苦笑)、「会食=現前」の場でしか交換しえない情報を思いのほか沢山いただくことが出来たのです。(フランス人研究者については名前を出せば、邦訳もあるフランソワ=ダヴィッド・セバーは、レヴィナス研究者のポスチュールをみせるがしかし実はデリダ的なのではないか、という指摘は増田さんからいただきました。少し後で、デリダの卓越した入門書で知られるマルク・ゴルドシュミットの名前を出すと、ゴルドシュミットは継続的にきちんとデリダを読んでいる研究者だと増田さんからお返事をいただき「手応え」を感じたというようなこともありました。)
そういう色々があり、先日、1~2年ぶりに増田さんとお話する時間を持てたのでした(備忘のため:カフェTopsでケーキをご馳走に)。もともと増田さんから「感化」されたので当然かもしれませんが、デリダについて、1~2時間、一応は会話を続けることが出来たのは嬉しいことでした。わたしの側から書くのは難しいですが「学生冥利に尽きる」というか…(笑)。
増田さんがいくつか懸念を表明していたので、簡単に書き留めておきましょう。ひとつには、時代が「難から易」に流れているのではないかということがあります。デリダのそれのような「超密」なテクストを読むのが難しくなっている、と。一般的にひとは「易きに流れる」ということなのかもしれませんが、詩についても哲学についても、この50年ほどで「劣化」してしまったという感覚があるのかもしれません――最も、この間にはインターネットの開始などラジカルなメディア環境の変化もあったわけで、そもそも「難易」の基準が変わってしまったということもあるでしょう。こういう時代にデリダはいかに読まれるのか? 増田さんによれば、デリダは三段論法などで図式化することが絶対に不可能な「希望のない哲学」なのですが…。
それともうひとつが、大学院に進学してくる学生がどうも学問を「ビジネス」として考えているようだ、ということです。研究対象について面談していても、なぜそれを研究するのかと聞いても「このひとのここは誰もやっていないから」というような答えが多く、増田さんの研究観とは少し異なるという。もちろん、研究は先行研究を踏まえ、やられていないことをやるべき営みです。それは増田さんもよくわかっているでしょう。しかし、そうした優等生的な身振りだけでは研究は続けられないということも、増田さんは経験的にわかっているらしいのです。これはどういうことか? わたし自身、多かれ少なかれ研究を続けていくことでしかその意味は完全にはわからないのかもしれません。増田さん曰く「食いっぱぐれても続けたいくらいでないと研究はできない」ということでしたが…。
増田さんはもともとフランスからの帰国子女で、日本の高校に戻ってきたときには一種の「適応障害」をおこしたとのこと。増田さんのあの素晴らしいフランス語には大きな代償もあったということなのかもしれません。しかし、わたしも多少のフランス留学から帰国していま思うのは、こうした「適応障害」なしには国境ないしは言語を超えた思考など展開しようもないのではないかということです。極東の島国の「同調圧力」などに気を遣っていては、本当の意味での思考など可能なわけがない、と。
思考家はさびしい。増田さんに思いをはせながら、わたくしはそんなことを思うのであります。
栗脇永翔
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