哲学のLite Program
夜の、ニューアカデミズムということで(苦笑)。久しぶりにこの時間にキーボードを叩いていますけど。
一昨日くらいに、たまたまスマホを眺めていたら、佐々木中さんが久しぶりに新刊を出されるということで、注文したらすぐに届いて、拝読していたんですが。今回は「哲学入門」ということで、新鮮な感じがしましたね。表紙のイメージも美しい。副題が、ちょっとすごいですけど。
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佐々木中さんっていうのは、僕らの世代の思想好き学生の、ヒーローのひとりというか、ちょっと孤高の存在みたいな感じです。
具体的に、自分の話をすれば、2007年に大学に入学して、少し後に書籍部に山積みになっていたのが、博士論文を書籍化した『夜戦と永遠』(2008年)。その後、学生時代のアルバイトで、吉祥寺のジュンク堂で働いていたとき、人文書コーナーの一番目立つ棚を覆っていたのが、もう少し一般の読者層向けの『切りとれ、あの祈る手を』(2010年)です。まさに、震災前夜でした。
当時、わたしは東大駒場の学部生で、指導教員の小林康夫先生が率いておられた哲学の国際センターのイベントなんかに足繁く通っていて、あの頃は、そのセンター(UTCP)の先輩方が博士論文を矢継ぎ早に書籍化して、一種の「若手哲学ブーム」みたいに言われていたりもしていたように記憶しているんですが、不思議なことに、今になって思い出すのは、駒場のグループとは離れた位置にいた、佐々木中さんの赤い小著のことなんですよね。
わたし自身、フランスに留学して、移動とか繰り返していると色々「還元」されていくというか、持ち物が減らされていくんですね。日本から持っていた本なんかも、ちょっとずつ入れ替わって。また、異文化で暮らすようになると、それまで面白いと思っていたものとは違うものに興味が出てきたりもする。まさに、自分自身が「生成変化」していくような部分もある。いつの一時帰国のときだったか、いくつかのレクチャーをまとめた『仝』という文庫本をフランスに戻る飛行機の中で楽しく読んだことを思い出します。
あとは、やはり、古井由吉さんかな。フランスで本格的に文学を勉強していると、その強度に耐え得る書き手として最終的に残ると思えたのはやはり古井さんだった。具体的には、詩に興味が湧いた時期で、ちょうど文庫化もされた『詩への小路』を、リヨン郊外のトラムの中で読み耽っていたときのことを思い出しますが、古井さんを、比較的わたしに近い世代で再評価されていたのが、佐々木中さんでもある。
なので、古井由吉さん、であいだに松浦寿輝先生をはさみ、そして佐々木中さん。このお三方が、6年間の留学生活を経て「変化」したわたしが、ふたたび発見した、日本の文学だったとも言えるかもしれません。
思うままに書き連ねていますが、古井さんの一連の著作、松浦先生の『明治の表象空間』、佐々木中さんの『夜戦と永遠』。このあたりは、まだ、正確には位置付けが定まっていないのではないか・・・と。
あるいは、佐々木中さんは、フランス現代思想(フーコー・ラカン・ルジャンドル)についての研究でデビューされながら、ドイツのロマン主義〜パウル・ツェランあたりからの詩の引用も多く、このあたりってまさに、フィリップ・ベックさんの参照とも響いていくわけですね。ベックさんと対話し、日本に帰国し、その水準でシームレスに読めたのが『切りとれ、あの祈る手を』だったりもしました。
今回の、『万人のための哲学入門』も、シラーへの言及があったりもするんですが、フィリップ・ベックさんの「教訓詩」の問題なんかと自分の中では響き合うんですよね。それこそ、ルジャンドルの詩論なんかも、いつか読もうと手元においてはいるんですが。
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「儀礼」ということですよね。最近も親族に不幸があって、少し思いを馳せる部分もあるんですが、普段都会に暮らしていると、日常生活のなかではあまりかかわりがないもののようにも見える。
でもーー
同時に、いたるところに「儀礼」は存在する、という感じもするんですね。ここからは、かなり、最近の〈栗脇モード〉に戻っていきます(苦笑)。
☆
「哲学のLite Program」なんていうタイトルをつけましたが、今回の佐々木中さんの新刊もさることながら、最近、「現象学」の勉強をし直していて、貫成人さんの著作や、(フランスでドイツの現象学を発展させた)モーリス・メルロ=ポンティの『知覚の現象学』を読み返していたんですが、このあたりって、実は、一種の「入門書」に近いものがある。でも、「入門書」って不思議で、実際には、高い水準で専門を持つ書き手が、かなり成熟した段階で書くものだったりもするんですね。Lite(light)な「入門書」の、「重さ」ないしは「濃密さ」がある。
ここから急にポップになるんですが(笑)、わたし自身足繁く通っている暗闇フィットネスで、「Lite Program」というのがあるんですよね。一応ビギナーズ向けということになっているんですが、実は違うんです!
どの動きも、一個一個のフォームをちゃんと確認しながらやると、身体への負荷のかかり方が全然違う。基礎の見直しという目的もあるんですが、この「負荷」を体感してしまうと、それこそ自分自身の身体の「生成変化」を感じずにはいられず、週に1回程度は必ず、この基礎クラス「Lite Program」に行くようになりました。
(ちょっと前に書いた「暗闇の女王」というポエムで、「軽きを重きに変えて」とか「習熟の目盛をスターティング・ポイントに戻し」とかいう表現が入ってますが、概ね、上述のようなことにかかわります。)
で、実際、暗闇フィットネスってちょっと「儀礼」っぽいんですよ(笑)。暗い中で、一定数の(20人〜60人くらい?)ひとたちが、一定の時間、「パフォーマー」(=指導者)の下で同じ動きを繰り返すので。最初足を踏み入れたとき、ちょっと宗教色を感じたというか、若干ヤバいところだなと思いました(苦笑)。佐々木さんへのオマージュということもないですが、「ねぶた祭り」をモチーフにするダンスプログラムとかもありますし(笑)。
ただ、この一種の「儀礼」的な性格が、インナーマッスルを鍛え、まさに身体を「調教」していくわけです(差し当たりは、フーコー的な含意とかでもなく、直接的に!)。ここに、一種の、「主体」の形成の「比喩」をみることはできなくはなくて、大袈裟に言えば、ある種の「革命」がある、とさえ言えなくもないように思うのでした。まあ、ちょっと、読み替えすぎているかもしれませんが・・・。
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わたしの場合はいま、「暗闇フィットネス」という補助線を引いて、自分自身の英語トレーニングの仕事をブラッシュ・アップしているところでもあるんですけどね。例えば、自分の勤務先で課題とされていることのひとつが「習慣化」だったりもする。これも、実は、「儀礼」に関わることです。
お葬式、親族が亡くなったら面倒くさくてもやりますよね、普通(笑)。それと同じ。モチベーションがあろうがなかろうが、毎朝の電車で『ターゲット1900』を開くことで「習慣」は、そして「習得」は始まります。
これは、当然、心理学的な水準で一種の「行動主義」と見ることもできる。とすると、今度は『行動の構造』の著者メルロ=ポンティは? 「伝統」や「習慣」にかかわる、フッサールの「受動的綜合」は? と哲学史へのみちが開かれていくことになる。
しかし同時に、哲学を学ぶために哲学史は必須ではないのかもしれない。暗闇フィットネスにも英語コーチングにも「教訓詩」があって、「生きるヒント」(竹内まりや)が隠されていて、哲学のLite Programはあちらこちらに、駆動し始めているのではないかとも思えるのでした。
Have a nice ritual!
栗脇