佐々木中「この世界における別の生」より
「これに関して、ピエール・ルジャンドルは実に興味深い言い方でこう表現しています。われわれは、バレエ・ダンサーのように調教されている、と。たとえば、工場労働者は工場奴隷として従順に「踊る」ように調教されている。工場内での期間工の動作は、すべて徹底して「仕込まれた」踊りであり、美学的なダンスだ、と言うんです。そのように調教されながら、期間工はそのダンスの対価としてわずかな賃金を得る。繰り返せば、この「劇場」で、ダンサーであるわれわれは永遠に振り付けを与えられ続けているというわけです。
こう言うと、何か悲観的に響くかもしれませんね。しかしそうではないのです。権力は「ミクロ」な水準の隅々に至るまで偏在し、そこから抜け出すことは不可能なのだ、そうした出口なしの状態にわれわれは置かれている――と、フーコーが言ったということにしたがっている人は現在に至るまで跡を絶ちません。しかし、彼はそんなことは言っていない。これにはフーコー自身が反論をしています。先ほど申し上げた通り、確かにわれわれは調教され様式化されている。しかし、その調教や様式化、規律化が完璧になされるということはあり得ないのです。われわれが常にすでに調教されているのは事実ですが、しかしわれわれに対する調教はいつも中途半端に終わり、様もなく失敗しているというのも同じくらい事実なのですよ。われわれは「調教」の失敗の効果だと言ってもいい。人々をこのように調教しよう、設定しよう、設計しよう、訓育しよう、などという企ては、いつも当初の目的から逸れてゆくりなく失敗し、大量の別の主体たちと別の状況たちを導いてしまう。そして、その「失敗」の効果こそがまた後から権力の効果として事後的に捉え返されるわけです。〔…〕」
佐々木中『アナレクタ1 足ふみ留めて』河出書房新社、2011年、58~59ページ。