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居合と演劇

古武道の奥深さ

履歴書に書ける資格かはわかりませんが、ボクは

柳生新陰流居合道一級の資格を持っています。

他の流派のことは知りませんが、少なくともボクが通っている稽古場では真面目に稽古に取り組んでいれば、試験などもなしに順当に段位は上がっていきます(高い段になると、試験のようなものはあるかもしれません)

居合…もとい柳生新陰流という古武道の稽古は楽しいです。

何より習い始めた時に師範から言われた、

「体に負担をかける稽古は稽古とは言えないし、もしどこかを痛めることがあれば、それは間違えた稽古をしている。本来、武道は体に負担をかけずに技を磨くものだ」

という言葉は今でもしっかり胸に畳んでいます。

※ちなみにボクなりの解釈なので、師範が言わんとしていることと完全一致しているかはわかりません。なので上記の言葉を柳生新陰流の総意として受け取らないでいただけると幸いです。

居合と演劇は似ている

これって演劇にも通じるような気がするんですよね。

ボクは声優の養成所上がりの人間なのですが、色々な世代の人が声優を目指し、そして挫折するところ、上手くいかないところを見てきました。

誰もかれも個性的で面白い人ばかりでした。真面目なんですけど、どこか空回っていた印象もあったんですね。

もっともコレは自戒を込めています。

何せボクは25歳から演劇の世界に飛び込んだ人間なので、養成所に入ったばかりの頃は焦りまくっていて、周囲のことなんど顧みずにひたすら自分が目立つことばかり考えていました。当然、評価も低かったんです。

目立ったもの勝ち。

これが通じる時も勿論あると思います。でもボクの中で演劇は多くの人がそれぞれの役割を持っている。役者だけではなく、脚本家、監督、照明、録音などなど…

そこを考えずに自分のやりたいようにだけやる。これは体に負担だけをかける間違えた稽古に似ていると今更ながらに思うのです。

居合と演劇は似ている 其の二

居合の対義語は立ち合いです。

これは刀を抜きあった状態で相手と勝負をすること。相手ありきです。なので技術を磨くためには1人ではできません。

一方で居合は1人でも稽古ができる。ただし常に仮想の敵を思い浮かべながら、型を自分の体に覚えこませなければいけません。

居合とは本来、その場に「居」ながらにして、相手の不意の攻撃に対して、一瞬の間を置かずに刀を抜き、同時に相手を制する剣技だからです。

演劇も自分が演じる役柄の心情を熟考したり、他の登場人物を際立たせるなど作品全体の流れを頭に入れた上でその場その場で最も適した演技を発露する必要があります。

常に頭の中に自分とその他の人物や存在する世界のことを思い浮かべるという意味では、居合と演劇は似ていると考えるのはいささか強引でしょうか?

逆境は成長のチャンス

ボクが今住んでいる部屋はお世辞にも広いとは言えず天井も高くないため、思い切り刀を振って稽古はできません。

しかし、部屋を傷つけないように1つひとつの型をゆっくりと行うことが結果的に技術を磨いています。

これが広々した部屋であれば力任せに刀を振って「何となく稽古をした気」になっていただけかもしれません。

一見、不遇に思える環境が自分を成長させる。

今はまさに世界全体が不遇と言える状況です。前向きに考えることができない人は無理に前を向く必要はないと思います。

しかし、その中でも確実に結果を残している人もいる。自分のやりたいことを成し遂げようとしている人がいる。前に進んでいる人がいる。

その事だけは胸に留めておいた方がいいかもしれません。

雷の呼吸

さて、最後に居合繋がりで大人気漫画『鬼滅の刃』の雷の呼吸の遣い手である、我妻善逸の師匠である桑島慈悟郎の名言を

「泣いていい 逃げてもいい ただ諦めるな」



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