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【福岡歴史白書】幕末という時代

幕末という時代を整理する

一口に幕末と言っても、当時の人々は「今って幕末だよね~」と思いながら過ごしていた訳ではありません。あくまでも現代の我々が歴史の中のひと時代を幕末と区切っているだけです。

では、幕末とは実際にいつからいつまでの期間を指すのでしょうか?

幕府にとっての終わりの始まり

始まりはペリーが黒船で浦賀に来航した1853年(嘉永6年)が幕末の始まりだとされています。終わりは1877年(明治10年)の西南戦争の終結まで。

つまり幕末は約20年間の時代を指すことになります。

ペリー率いるアメリカは圧倒的な力で日本を威圧し、時の大老・井伊直弼は朝廷の許しを得ずに日本にとって不利となる日米修好通商条約を結びます。これによって日本経済は大混乱。輸出の拡大による米などの生活必需品の不足。貨幣の価値の低下と物価の急騰などなど多くの原因により人々の生活は困窮しました。

そうなれば、外国やその力に屈した幕府を恨むのは至極当然と言えるでしょう。

200年以上続いた徳川幕府の威信はこれらの出来事をきっかけに崩落していきます。

尊王攘夷が活発になる

人々の生活を苦しめた幕府。そんな幕府はもう要らない!とばかりに動き出した人々の思想が一般的に尊王攘夷と言われます。

元々尊王攘夷とは幕府を打ち倒す思想ではなかった。幕府も積極的に尊王や攘夷の意思を示すことで各藩の信頼を得て日本を1つにするものだった。

しかし、外国の圧力に屈した幕府への不信感が尊王攘夷という思想を倒幕の思想へと変貌させてしまったのです。

とは言え、変わらず幕府を支えようとした佐幕の思想を持つ人や寧ろ外国の技術や文化を積極的に取り入れようとする開国の思想を持つ人もいました。

幕末 勢力図

ペリー来航から始まったと言われる幕末。そこで生きた志士と言われる人々は上の図のいずれかの思想と信念を持ち激動の時代を駆け抜けていったのです。

幕末の福岡

さて、そんな幕末における福岡はどのような場所だったのでしょうか。

当時の福岡藩主、黒田長溥は西洋の学問、文化を好む「蘭癖大名」でした。

藩主がそのような人物なので、幕末の福岡は積極的に外国の文化を取り入れていた開国派のクニだったのでしょうか。確かに唯一外国と交易していた長崎にも警護役として行っていたので外国文化に触れる機会は多かったのかもしれません。

しかし、福岡には尊王攘夷派の集まり筑前勤王党が存在していました。月形洗蔵もここに所属していました。外国の文化を好む藩主とそれに真向から対立する筑前勤王党。最終的には、1865年(慶応元年)に起きた「乙丑の獄」によって勤皇派は佐幕派による弾圧を受け崩壊した。福岡藩の尊王攘夷派の集まりである筑前勤王党。彼らは後に明治維新の礎を築いた薩長土とも深い関わりがあった。にも拘わらず藩の考えを1つにできなかった、もしくは折り合いをつけられなかったことが原因で福岡藩に新しい時代の旗手の座は用意されていなかったのです。

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幕末と今の時代は似ている?

黒田長溥をはじめとする福岡藩や佐幕派は何をしているんだ。先見の目がなかったように思われます。それは未来の我々だから言えること。当時は己の正義を信じてそれぞれが全力で生きていただけ。何が間違いで何が正解かの明確な答えがわかっていれば誰も苦労はしないし争いは起きません。

現在2021年。今もまさに世界中が混迷の渦の中です。政府に不満はありますが、誰も答えがわからないので失敗も多々あるでしょう。

月並みな言葉ですが、結局自分ができることをやるしかない。その上で自分だけではなく周囲の人の迷いや恐怖にも膝を突き合わせる余裕を持ちたいものです。

歴史は人の成功と失敗が絡み合っています。不安な現在なら激動の過去を振り返ってみると案外未来を良くできるヒントがあるかもしれません。

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