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黒田長溥という男
幕末の福岡を舞台にした時代劇を作ろうと思ったら当時藩主であった黒田長溥から目を背ける訳にはいきません。
蘭癖大名
長溥は西洋の学問などを好む蘭癖大名でした。
鎖国国家の日本においてはどのくらい同じ蘭癖大名がいたのかはわあkりませんが稀有な存在だったのだと思われます。
長溥は元々薩摩生まれ。福岡藩主の養子となりました。当時、唯一海外との貿易が許されていた長崎。その警護役に筑前藩(福岡藩)は就いていたことから西洋の文化に接しやすい立場だったといえます。
そんな彼は黒船来航の時、幕府に攘夷は愚かなことであり、今こそ西洋の文化を取り入れるため開国すべきだと主張。
長溥は愛国心がない訳ではなく、日本が広く深く西洋の文化や技術を取り入れた上で富国強兵を行わなければ日本が海外の食い物にされると考えていたのでしょう。
しかし、彼は日本という国の政治制度を改革することよりも、とにかく開国すべきだと主張していたとする見方もあります。
順番としては、
日本の政治改革→開国
とするべきだったが、彼はただただ開国の利点だけを主張していたに過ぎなかったとのことです。
名君か暗君か
長溥は内戦を避けるために窮地に立たされた長州を救うべく藩士を動かしたり、幕政を改革するような藩政になっていったのにも関わらず最後は幕府側につき月形洗蔵を始めとする優秀な志士たちを処刑してしまいました。
また長溥は家臣には開国についての考えを多く明かすことはなかったので、藩が1つになる訳がありません。
この事から先見性がないように思われますが、コレはあくまで結果論。
ボクが思い描く幕末の福岡の物語は月形洗蔵を始めとする志士たちが主人公。その立場から見れば黒田長溥という藩主はどうしても暗君として描かなければならない。
しかし長溥は西洋の文化を取り入れた新しい日本を夢見ていた。そう考えると純粋ゆえに考えが及ぼなかったともとれる。
月形洗蔵と長溥は犬猿の仲のように思われるがそれを証明する資料はない。
月形洗蔵も尊王攘夷に固執した外に目を向けない人物に思われるが実際は長溥が着手していた軍式の洋式化「蘭法導入」について多くの家臣が反対する仲、支持していた。
もしも月形洗蔵が黒田長溥の股肱の臣になっていれば福岡藩は歴史の表舞台で大きな活躍ができたのではないかと妄想が膨らむばかりである。