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【福岡歴史白書】月形洗蔵という男①
薩長同盟のきっかけを作った男
前回の記事にて薩長同盟のきっかけを作った幕末の福岡藩士、月形洗蔵について触れました。
肖像画もなく、歴史の表舞台に出なかった月形洗蔵という男について、現時点でボクが調べたことについて書きます。
月形洗蔵は文政11年(1828年)、筑前国早良郡追回新屋敷(現福岡市中央区六本松)に儒学者(朱子学)である父・深蔵の長男として生まれる。※1
月形家は学者の家系であった。従弟には北海道の月形町の名前のきっかけとなった月形潔がいる(彼のこともいつか書き記したい)
過激な尊王攘夷派
彼は尊王攘夷派で、万延元年(1860年)に藩庁に「尊王攘夷の実現のために財政や軍備を整えることが急務であり、財政負担となる藩主の江戸参府(参勤交代)を見合わせるべきだ」という旨の藩政改革の建白書を藩庁に提出している。この他にも藩の汚職を批判し、尊王攘夷を藩主に説いた。
これら一連の動きが当時の藩主・黒田長溥の怒りを買い、捕縛された。更には家督を没収の後に幽閉され2年の牢生活を過ごした。
薩長同盟へ
日本が長州征伐へと動いている中、福岡藩(筑前藩)は今は内紛をしている時ではないと考えていたが、大っぴらに幕府の意向には逆らえなかった。そんな時、月形洗蔵は「薩摩・長州を和解させること」を建言する。藩として公然と長州に味方するような真似をすることを幕府に勘繰られたくなかった為、月形洗蔵とその仲間たちの行動を暗黙に見逃した。
2年の牢生活で抑え込まれていた情熱を発散させるように月形洗蔵は動いた。しかし、彼には非業な最期が待ち受けていたのだった…
【参考文献】
『維新の魁 筑前勤王党』 示車右甫著、海鳥社刊、2020年
『維新秘話・福岡 志士たちが駆けた道』 浦辺登著、花乱社、2020年
『アクロス福岡文化誌9 福岡県の幕末維新』 アクロス福岡文化誌編纂委員会、2015年