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リレーエッセイ「ブラジル」(連想#14)

私が書いたエッセイ「屋上」に続いて、トミーくんが書いたエッセイのテーマは「地下」。なるほど、そう来たか!

トミーくんも書いてくれたが、われらが青春を過ごしたライブハウスは、その多くが地下にある。お世話になった「四谷フォーバレー」「神楽坂DIMENSION」「吉祥寺クレッシェンド」はいずれも地下。少年時代にあこがれた「新宿ロフト」も地下だ。トミーくんが名前を忘れたと書いていた代々木のライブハウス「ステップウェイ」、大塚のライブハウス「CAVE」も地下にあった。

ちなみにステップウェイは厳密にはライブスペース付きのスタジオだったはず。すでに閉店しているそう。CAVEは「MEETS」と名前を変えて現在もライブハウスとして営業中とのこと。

ライブハウスには、いい思い出も苦い思い出も同じくらいある。どちらかというといい思い出のほうがちょっと多い気はするけど、バンドでプロデビューする夢が叶わなかった私の青春は、いまも地下に埋まったままなのかもしれない!? ……いまひとつ気ノリしないので、今回のエッセイで「ライブハウス」を題材にするのはやめておこう。


トミーくんのエッセイに書かれていた内容のうち、個人的には「地下街」についてのブロックが興味深かった。

高校生の頃、新宿サブナードから出られず泣きそうになったことがある。あとから考えれば一度地上に出ればいいだけなのだが、混乱状態に陥るとそうもいかないから不思議だ。いまや新宿地下街で迷うことはない。だが「俺は新宿地下街で迷わない男!」と見知らぬ土地の地下街へと得意げに乗り込むと、まぁまぁな確率で迷う。困ったものだ。

東京駅、横浜駅は慣れでなんとかなるが、何度行っても池袋が苦手だ。そして渋谷には戸惑うばかり。ここ数年の渋谷大改装で地上も地下もすっかり様変わってしまい、以前ならスッとたどりつけた場所になかなか辿り着けなくてイライラする。

さて、ちらりと調べてみたところ、現存する日本最古の地下街は浅草にあるのだそう。動画で見たら、めちゃくちゃいい味が出ている。いつか実際に自分の目で見てみたくなった。

浅草の地下については、浅草寺の地下に「僧侶たちが集う秘密の地下街がある」という都市伝説があるのだとか。こちらはだいぶ眉唾だが、動画に出演している語り手でもある月刊ムー・三上編集長の証言につい引き込まれてしまう。そしてラランド・サーヤさんは芸人としても面白いし、同郷なので推し。気になる方はぜひご視聴を。


浅草といえば、個人的にはサンバカーニバルの街である。雷門、浅草寺、三社祭、花やしき、演芸の殿堂「東洋館」、ホッピー通り、アサヒビール本社の巨大モニュメントなどなど浅草は見どころだらけだが、個人的には俄然「サンバ」だ。

2017年9月から、縁あって横浜を拠点に活動するサンバチーム「サウーヂ」にて打楽器隊の一員として活動しており、先ごろ開催された浅草サンバカーニバルにも出場した。それゆえ「浅草といえばサンバ」は揺るがない。

サンバはブラジル生まれの音楽である。浅草とサンバの出会いは戦後。様々な海外カルチャーが国内屈指の歓楽地・浅草に流入するなか、演芸場でサンバがなかなかの人気になったそう。しかし人々の娯楽が演芸や映画からテレビへと移り変わるなかで浅草を訪れる人が減少し、サンバも下火に。そんななか、浅草復興の目玉として、喜劇役者・伴淳三郎さんの提案で1981年に企画されたのが「浅草サンバカーニバル」だったという。詳しくは下記サイトに。

いまではおなじみのイベントとなった浅草サンバカーニバルだが、遠く離れたブラジルのカーニバルを模倣して、大掛かりなイベントを実現させてしまうバイタリティはいかにも昭和。高度成長期の余韻やバブル前夜のエネルギッシュな空気感も、浅草サンバカーニバル誕生に影響したのではないだろうか。ちなみに近年の浅草サンバカーニバルは軒並み50万人を動員。コロナ禍の中止を経て4年ぶりに縮小開催された2023年も30万人を超える観客が現地を訪れたという。


そんなサンバの故郷ブラジルは「日本からみて地球の反対側にある」と小学生時代に習った。昼夜も季節も逆だと聞いて驚くと同時に、公園の砂場で深い穴を掘っているときに「このまま掘り進めたらブラジルに着くのでは?」とワクワクした覚えがある。

大人になってから、こんな曲に出会った。大好きな筋肉少女帯の大槻ケンヂさんが結成した「特撮」というパンクバンドの「トンネルラブ」という曲。

歌詞を要約するとこんな内容だ。「遠いブラジルに旅立ってしまった恋人をに会うべく、おれは穴を掘って掘って掘り続ける。掘ること3年、ついにブラジルに到着した!」。……こうやって書いてみると、だいぶおバカに思えるかもしれないが、本作には執念にも似た純愛が満ち溢れている。

演奏はメロウな序盤からスタート。しばらくすると徐々に演奏が激しくなり、ザクザクと地底を突き進むかのようなディスト―ションギターがビートを刻んでいく。ベースラインもブリュブリュとうねる。その後、ブラジル到着を物語るかのごときラテンなドラムパターンが延々と打ち鳴らされ、歌詞の男は叫ぶーー「サンバだ!」と。

初めて聞いたのは、収録アルバム「ヌイグルマー」が発売された2000年の秋。一聴してまさかの展開に感動してしまった。

私は当時、ロックバンドでプロになるべく本気で活動していた。ブラジルへの興味は皆無。後にサンバチームで活動することになるだなんて1ミリも考えていなかった。人生どうなるかなんてわかったもんじゃない。


などなど、なりゆき任せに書き進めてしまったが、トミーくんが書いた「地下」エッセイをきっかけに、現存する日本最古の地下街がサンバの街・浅草にあることを知り、かつ、地下に向かって日本から掘り進め進むとそこにはブラジルがある、ーーということで今回は「ブラジル」について書いてみようと思う。

ブラジルのことを、人生で初めて意識したのは、前述した小学校の地図帳で「地球の反対側」だと知ったときだった気がする。その前に「仮面ライダーアマゾン」を知ってはいたが、子供時代にアマゾン=ブラジルという知識はなかった。

サンバチームに入ってから知ったのだが、ブラジル人の中には「ブラジルは日本から見て地球の裏側」という表現を嫌う人もいるという。裏という言葉に含まれる「良からぬもの感」が、どうやら快くないらしい。サンバを育んだリオデジャネイロの貧民街(ファベーラ)が「裏山」と呼ばれるため、中流以上の人にとっては裏という表現に抵抗感があるのかも? あくまでも勝手な想像だが。

そもそもブラジルから見れば、日本こそが地球の反対側である。表が日本、裏がブラジルみたいな言われように納得がいかないのは頷ける。そう考えると、今回のコラムを「日本から見て地下のさいはてがブラジルである」みたいな発想を出発点として書き出してしまったこと自体が失礼なわけだが、その点は行きがかり上の“あや”だと思っていただけるとありがたい。


しかしここで、とんでもない事実を書き記さなければならない。なんと、日本にとっての地球の反対側は、ブラジルが位置する南米大陸上ではなく、ウルグアイ沖の大西洋上になるのだという。くわしくは下のサイトに。

では、なぜブラジルは「反対側」「裏側」と思われてきたのか。

日本で働く場所や農地を求めていた人々に対して、国がブラジルへの集団移民を斡旋した明治時代以降。「遠く離れたブラジルに理想の大地がある」と宣伝するなかで、煽り文句として「地球の裏側」「反対側」などの表現が使われたのかもしれない、などと想像が膨らむ。その名残が日本側に根付いているのかも。当時ブラジルに移住した日本人たちは、とてつもなく過酷な環境に置かれ壮絶な人生を送ることなるわけだが、その話は専門外なので今回は省略させていただく。あしからず。

そしてもうひとつ、今回のコラムを書くためにリサーチするなかで、衝撃的なページを見つけてしまった。

「空想科学読本」シリーズで知られる柳田理科雄先生の論考。要約すると、まず現代の技術で日本からブラジルへ地球を貫通するトンネルを掘ると485年かかるそう。トンネルに飛び込むと落下速度は最大マッハ20越え。トンネル出口で何かにしがみつかないと今度はブラジル側から日本へ落下(日本 ー ブラジル間のエンドレス往復地獄になる可能性あり)。トンネル内の温度は6000度、地球の公転運動も考慮すると最終的には地球のど真ん中で燃え尽きる、ということになるのだとか。怖ぇーよ。

公園の砂場からブラジルへなんて無邪気な空想も、特撮の「トンネルラブ」も、まったくもってお話にならない。まぁ、お話にならないからこそ面白くて愛くるしいのだけれども。


小学校の地図帳でブラジルを知った頃、次にブラジルを感じたのは漫画「プロレススーパースター列伝」で、アントニオ猪木さんの生い立ちを知ったときだったのではないだろうか。少年期にブラジルに移住した猪木さんが、現地のコーヒー農場で過酷な日々を送る描写を目にして、ブラジルはとんでもない場所ブラジルといったらコーヒーが有名、みたいなイメージがはじめ少年の脳にインプットされた。

子供の頃、誰かから「アントニオ猪木さんがタバスコを日本に初めて持ち込んだ」という逸話を聞き、タバスコもブラジル産なのだと思い込んでいた。実際のところタバスコは、メキシコ産の原料で作られたアメリカ製品。ちなみに猪木さんは、日本でタバスコが初輸入されてから30年を経た時期に、経営していた会社名義でメーカーと代理店契約を結び、その味を国内に広めた“功労者”という見解が正しいのだそう。

子供時代は「ブラジル、アントニオ猪木、タバスコ、メキシコ、ルチャ・リブレ(メキシコの覆面レスラー)、プロレス、アントニオ猪木、タバスコ、メキシコ……」という連想のループにハマり、ブラジルとメキシコが頭の中でごっちゃになっていた。私だけだけだろうか。

「プロレススーパースター列伝」を読んでいたのと同じ頃、「キャプテン翼」を読んでロベルト本郷なる日系ブラジル人が登場するのを知った。周りはキャプ翼ブームだったが、私は何となくハマれず。それでもキャプ翼を通じて「ブラジルはサッカー王国」なのだと知った。


高校時代には、そんなサッカー王国・ブラジルで暮らしたことがあるという帰国子女の後輩・どんむくんと頻繁につるんでいた。彼の家に何人かで遊びに行った際、どんむくんから「モノポリーやりませんか?」と持ち掛けられた。

モノポリーはアメリカ生まれのボードゲーム。すごろく形式で盤上のマスを周回し、止まった場所の土地を買って、建物を立てて、後からそのマスに止まったプレーヤーが宿泊費を払い……といった感じでゲームが進んでいく。カードやマスに書かれたハプニングに沿って、お金をもらえたり支払ったり。最終的に誰が一番大金持ちかを競う。雑なたとえで恐縮だが、“桃鉄” や ”人生ゲーム” のルーツのような感じ。

私はテレビや雑誌の情報で「モノポリーっていう面白いボードゲームがある」ということを知ってはいたけれど、プレーするのはこの時が初めて。どんむくんと私以外は「モノポリーって何?」という状態だった。私は「モノポリー、やってみたかったんだよね。ぜひやろう!」と、どんむくんの提案に乗り、他の友人を巻き込んだ。

ところが! どんむくんが箱から出してきたゲーム盤やカードに書かれた文章は全部がポルトガル語。どんむくん曰く「これ、ブラジルで買ったので、全部ポルトガル語なんですよね」。ブラジルの公用語がポルトガル語であることは、このとき強く脳裏に刻まれた。

仕方なくゲームをスタートさせたものの、止まったマスに何が書いてあるのか、カードに何が書いてあるのかが、どんむくん以外には分からない。わからないままお金を払ったり、お金をもらえたり。どんむくんはハプニングの内容を半笑いで訳してくれるが、それが本当なのか確かめようがない。なぜお金をもらえたのか、なぜお金を払ったのか、ズルされているんじゃないか、などなどスッキリしないことが多くてゲームに感情移入ができない

世の中で面白いと絶賛されるモノポリーだが、情緒もへったくれもなかった。ポル語版モノポリーを通じて、ブラジルをちょっぴり身近に感じられたものの、なんともいえないモヤモヤが残った。(なお、後日、別のメンツで日本語版をやったらモノポリーはしっかり面白かった!)

余談だが、どんむくんがブラジル時代を過ごした日本人学校に、とある日本人サッカー選手がやってきて、子供たちにサッカーを教えてくれたという。サッカーに興味がなかったどんむくんは「有名な人なの? 誰?」という感じだったとか。大人になり、サッカーファンになった私がその選手の当時の印象をどんむくんに尋ねたところ「なんだかいけすかない奴だった」と教えてくれた。


どんむくんの家でポル語版モノポリーをプレーしてから2年後となる1993年、日本でJ リーグが開幕した。極度の運動音痴である私は、無意識のうちに「スポーツに夢中になるやつはどうかしている」と思い込むことで自意識を保ち、劣等感を抱かないようにしていたので、Jリーグ開幕を冷ややかに見ていた。いま思えば異様なまでの冷淡さ、本当にイヤな奴。

同年のドーハの悲劇についても何年も後にサッカーを見るようになってから知った。「サッカー王国ブラジルから、Jリーグチームにスター選手がゾクゾク加入」みたいなニュースもどうでもよかった。

そんな私が、後にいろいろあってサッカー観戦の面白さを知り、FC東京のサポーターとなって味スタのゴール裏でブラジル人選手の活躍に涙するまでになるのだから、人生どうなるかなんてわかったもんじゃない(今回2度目)。04~07年、11~13年にFC東京に所属したルーカス選手、18年から現在も所属しているディエゴ・オリベイラ選手は、世界中のどんな有名選手も比にならないくらい大好きだ。

ここ数年、めっきり生観戦する機会が減ってしまったが、サッカーを好きになってからは、ブラジルが一気に身近になった。FC東京は年に1回「ブラジルDAY」という企画をおこなっており、その日はスタジアム内の張り紙やアナウンスなどがブラジルのポル語仕様に。フードショップでもブラジル料理の販売が行われる。

人生初のブラジル料理は、サポーター1年目のブラジルDAYで食べたフェイジョアーダだった。フェイジョアーダは、簡単にいうと黒豆と肉の煮込み。それをご飯にかけて食べる。味スタでの初フェイジョアーダは……マズかったキャンプ3日目に残った食材で作った失敗料理みたいな感じ(ちょっと大げさか)で、食べ残したかったけれど、もったいないから頑張って最後まで食べた。同じ日に食べた別のブラジル料理・パステル(小麦粉生地で具材を包んだ上げ料理)はおいしかったので「ブラジル料理が全部だめってわけではないのだろう」と、自分に言い聞かせた。


サッカーを観るようになってから何年か経ち、今度はフットサル観戦が趣味に加わった。初心者仲間を集めて自分のフットサルチームも作った。トミーくんも、引っ越す前は何度も来てくれた(あのときはありがとう)。スポーツ嫌いだった私が、サッカーを好きになっただけでなく、自分でボールを蹴ってみようと思いチームまで作ってしまったのだから、人生どうなるかなんてわかったもんじゃない(今回3度目)。

フットサルの世界は、選手もファン・サポーターも、Jリーグ以上にブラジルカルチャーから影響を受けている印象がある。戦術用語にもポルトガル語が多い。ブラジルに修業に行った選手が直に情報を仕入れ、また、国内ではブラジル人チームからフットサルを学ぶ。その結果、随所でポル語が使われていった。柔道で「一本」「技あり」などが世界標準で使われている感じ、と説明すれば分かりやすいだろうか。ついつい口から出てしまう「チクショウ」「コノヤロー!」的な罵り言葉も、日本人選手はポル語で「P×××A!」と叫ぶ。それを真似してサポーターも同じワードを叫ぶ。

食べ物もファッションも日用品までも、何かとブラジル人を真似ることがフットサル上達の近道であるかのような雰囲気もあり、やりすぎると仲間内で「ブラジルかぶれ」とからかわれる。でも「ブラジルかぶれ」とイジられることが、ちょっとしたステータスでもあるような、2000年代のフットサルシーンはそんな世界だった。

そんな世界に飛び込んでだので、サポーター仲間とブラジル料理を食べる機会はすぐに訪れた。ブラジル人が多く住む群馬県邑楽町のフットサルコートでのイベントに行った際、屋台のブラジル料理店でみんなはフェイジョアーダを注文する。以前、味スタで苦闘を強いられたあの豆料理だ。「おれ、苦手なんで」と言ってはみたものの、周りは「フェイジョアーダが苦手なんて珍しい。おいしいのに」と声をそろえる。「え? みんな好きなの?」と驚きつつ、それならばと騙されたつもりで食べてみたところ…………うまかった! 2口目も3口目もうまい。フェイジョアーダ、うまいじゃないか。

どうやら人生初のフェイジョアーダがハズレだっただけ、というのがことの真相のようだ。そう気付いてからというもの、ブラジル料理を食べる機会があれば、フェイジョアーダは絶対に外せないメニューになった。

地元八王子にはブラジル・ダイニング・ノッサというお店がある。料理を担当するブラジル人のマダレナさん、彼女が作るフェジョアーダ・プラットが抜群においしい。お店のマスターは、フットサルを始めた当初に知り合いづてに仲良くなった地元の先輩・野口さん、ビールの注ぎ方が上手くて、口ひげがダンディ。野口さんが作るカイピリーニャが自分にはちょうどいい。ブラジルカラーの店内もとてもいいムードで、居心地抜群なお店だ。八王子でブラジルを感じたいときは、ぜひノッサへ!

八王子市三崎町、ブラジル・ダイニング・ノッサ

フットサル観戦で何度も訪れている茨城県常総市には、“ブラジルスーパー”という通称で呼ばれているお店がある。正式名称は「TK STORE」(かつての店名は「TAKARA」)。

関東鉄道常総線・水海道駅の目の前に建つTK STOREの中には、ブラジル料理に欠かせない食材や調味料、ブラジル製のお菓子、お酒、ジュース、日用品などがそろっている。ブラジルで人気の炭酸飲料・アンタルチカガラナを箱買いするフットサルファンも少なくない。駅から少し離れたところにある施設で、会場をあとにした、選手、サポーター、大会関係者が店内で鉢合わせになり「どうも、どうも」なんてこともよくある。

ブラジルスーパーと同じ建物の2階は、いかにも日本な居酒屋さん

特筆すべきは、お店に入ってすぐのところにあるイートインOKなフードコーナー。ここのブラジルバーガーが絶品。ブラジル食材、ブラジル調味料が使われていて、思いっきり頬張ると口の中がブラジル! 何種類かバーガーがあるなかで、お気に入りは全部入りのTodosバーガー。とにかくいろいろな具材がバンズに挟まれていて、サイドメニューなしでもお腹いっぱいになれる。

バーガー、パステゥ、ガラナ! これで気分はすっかりブラジル

以前、このフードコートで働いていたブラジル人のママは、私たちがフットサルのサポーターだと覚えていてくれて、顔を出すたびに「きょう勝った?」と声をかけてくれた。彼女が他のパン屋さんに転職したことを知って、そちらへ買い物に行ったこともある。しかし、しばらくしてそのパン屋さんにいった際に「彼女、ブラジルへ帰っちゃったんです」と聞いた。レイラさん、お元気だろうか。

TK STOREの奥にはベーカリーがあり、タイミング次第では焼き立てのパンが買える。おすすめはポン・デ・ケージョ。これに、売り場で売っている「ゴイアバーダ」(グアバ・ペースト)を挟んで食べるのが最高だ。

写真のゴイアバーダは「ようかん」のような固めタイプ。
ポンデケージョに挟む場合は、瓶入りのペースト状ゴイアバーダもおすすめ。

ケージョ(チーズ)とゴイアバ(グアバ)の組み合わせは、“禁断の関係かと思いきや相性抜群”なことから、ブラジルでは「ロミオ&ジュリエット」(Romeu e Julieta)と呼ぶのだそう。この“ロミジュリ”は、応援しているチーム・VEEX TOKYO Ladiesの日系ブラジル人監督・眞境名オスカーさんの奥さん,、ネウザさんから教わった。

下の動画は、ネウザさんのYoutubeチャンネル「Horta da JapoNeuza」で公開された今年7月のブラジルフェスティバル(代々木公園)の様子。友達も何人かメインステージのライブに出演していたが、別の予定があったため今年はブラフェスに行けなかった。動画の15:19あたりから、FC東京のレジェンド、KINGアマラオが登場!  


オスカー監督とネウザさんはふたりともサンパウロ出身。サポーター活動をしているうちに親交が深まり、あるとき日系ブラジル人仲間が集まるシュハスコに招かれた

写真の一番右がオスカー監督、どこかの試合会場で撮影した一枚

日本人がシュハスコと聞くと、ブラジルレストランで提供されている串刺しにしたブロック肉のあぶり焼きを想像するかもしれないが、ブラジル人にとってのシュハスコは「庭や河原でのバーベキューパーティーを開くこと」を指す言葉でもある。むしろ、そういう使い方の方が多い。

お誘いいただいたシュハスコは、多摩川の河原で行われた。まさに日本人がイメージするバーベキューパーティーのような様相で、炭火グリルや鉄板でいろんなものを焼いて食う、ビールも飲む、やんやと盛り上がる、という何10人かの集まりだった。そんななかオスカー監督が、参加していた日系ブラジル人たちに私を紹介してくれた。「こちらはサポーターのはじめさんです。音楽が得意な人です」。すると、ブラジル人たちから「ミュージシャンなの? じゃあサンバやってくれ」「パゴーヂはできないのか?」「アルシオーネを歌いたいんだけど伴奏してくれ」などのリクエストが飛んできた。

パゴーヂ? アルシオーネ? と、私の頭の上にはいくつもの「?」が並んだ。一方、彼らは「なんだ、知らないのかよ」みたいな表情をしている。それが悔しかった。招かれたのに何もお返しできない申し訳なさいもちょっぴり。

後日、“次に招かれたときのために”とパゴーヂで使う楽器を手に入れ、CDも買いまくった。ちなみにパゴーヂとは、主にアコースティック楽器を使って、日常生活のひとコマのなかで演奏をするスタイルのサンバを指す。庭で、河原で、路上で、パゴーヂはあちこちで繰り広がられている。アルシオーネはサンバ界の歌姫の名前だ。

パゴーヂのCD、このシリーズ3枚はお気に入りで特によく聞いた

日本人にとって、サンバとったらカーニバルでのパレードや、露出度の高い羽根の衣装を背負ったダンサーを想像すると思う、しかし、実際のところ音楽ジャンルとしての「サンバ」にはいくつもの細分化されたカテゴリーがあり、日本で人気があるボサノヴァもサンバの一種である。ロックがヘヴィメタ、ハードロック、パンクなどなどに細分化されているように、サンバにもいろいろあるのだ。そしてパゴーヂは、もっとも生活に根付いたサンバとしてブラジル人に愛されている。


すでに話が長くなってしまっているので一気に端折るが、こうしてパゴーヂ楽器の練習に励むなか、偶然にも国内トップクラスのあるサンバチームの代表者さんにインタビュー取材する機会に恵まれた。そのとき取材したのが、いま私が参加している横浜のサンバチーム・サウーヂの当時のトップ、カズー(日本人です)。

取材のなかで「個人的にサンバにとても興味がある。でもサウーヂは横浜なので、住んでいる八王子から通うのはしんどい」と伝えたところ「そんなの大したことないよ。ブラジルより近いんだから、おいでよ」と笑顔で口説かれた。ブラジルより近い……って、それを言い出したら、日本からみて世界中のあらゆる場所がブラジルより近い。 そんなユニークな口説き文句に一本取られ、バテリア(打楽器隊)にお試しで参加した。

参加初日に、練習後の打ち上げに参加させてもらったのだが、貸切りの居酒屋店内で突然パゴーヂが始まったのには本当にびっくりした。歌う人、楽器を演奏する人、踊る人、ドンチャカタカシカ、ビール、ハイボール、ビール、レモンサワー、ビール、ドンチャカタカシカ。

いまではチーム在籍年数も長くなり、居酒屋でパゴーヂを珍しいとは感じなくなったが、その日は「なんだこれは。日本でこんなことをしている人たちがいたのか」と驚いた。パゴーヂ楽器を自己流で練習する際にYoutubeで見ていた、遠いブラジルの光景……っぽかったか? と問われるとはっきりとしたことは言えないけれど、ブラジルを敬愛するサンバ好きな仲間たちの熱い魂がそこにあった。そんな様子を見て「いいチームだな」と思い、正式に加入を表明した覚えがある。

サンバチームのパゴーヂの様子をまとめた動画、公開日は少し前のだけど貼っておく。私が動画編集しました。

日本の各地にブラジル人町があり、ブラジル製品が買えるお店もある。そういえば近所の大手メーカー工場でブラジル人がたくさん働いているので、2週間に一回、ブラジル製品を積んだ引き売りトラックが徒歩圏にやってくる。サッカーやフットサルを通じて感じられるブラジルがあり、電車で行けるサンバチームでもブラジルにあこがれる仲間といい感じの時間を過ごせる。日本にいながら、私はだいぶブラジルを味わっている方だと思う。

ちなみに、下のリンクバナーは私がフットサル観戦のために行った栃木県で見かけた、ブラジル製品ショップの電光掲示板。ファニーだったので動画撮影してPinterstに公開したもの。


今回、ブラジルをテーマにした文章を書いてはいるものの、私自身に渡伯歴はない。サンバチームに入った当初は、いつかは本場で生のサンバを感じてみたいと思っていたが、正直に打ち明けると、いまは「行かなくてもいいかな」と思っている。そもそも旅行が得意じゃないし、海外旅行となるとなおさらハードルが高い。しかも、地球の反対側だと習ったはるか遠い場所だなんて……。ただ、だからこそ行く価値があるというのは分かるので、ブラジルに行く人に対しては「楽しんできてねー」「お土産話聞かせてねー」である。

もしも私がブラジルに行くとしたら。一番にやりたいのは楽器屋さんめぐりだ。往復の飛行機代や旅費もかさむのに、楽器を買う費用も必要だ。どれくらい用意すればいいのだろう。たくさん買った場合やデカい楽器を日本に運ぶ方法も考えなければならない。輸送費もかかる。そうやって細かいことを考え始めると割と悩ましい。遠いブラジルまで行って、お金がなくて楽器を何も買えないとか、買いたいけど運搬方法がなくてあきらめるなんてのは残念過ぎる。行くからにはそれなりに好きなように買いたいが、暇なし貧乏フリーランスにはかなりキツイ。

一説によると、日本国内でブラジル楽器を専門に扱っている西巣鴨のお店マルメラアダは、輸入するアイテムを店長さんが厳選しているらしい。それゆえに、ブラジル国内で楽器屋さんを回るよりが効率がよく、粗悪品をつかまされるリスクも低いという説がある。本当だとしたら、私にとってのブラジルへ行きたい理由がひとつ薄らぐ。

ブラジルに行くなら、敬愛しているサンバチーム「マンゲイラ」の練習に参加して一緒に楽器を叩いてみたいという夢はある。だが、チョコッと遊びに行って「ぼくもまぜてー」みたいなノリでは実現できないだろう。また、リオのカーニバルを生で見たい気持ちはあるが「どうしても絶対に見なきゃ死んじゃう」ってほどでもない。などとゴタゴタ言うのをやめて、現地に行けば絶対刺激があるっていうのは分かっているけど、なにせ旅行が億劫な性分なのだ。

その昔、「アメリカで生まれたロックは英語で歌うのが当たり前で、渡米して修業しなければ本物になれない」みたいな時代があった。しかしいつしか、日本人が日本産のロックを生み、それが海外で受け入れられる時代になった。サンバも、先人たちがしっかり頑張ってくださったおかげで、ブラジルに行かなくても日本で育める時代にさしかかっている気がするし、そういう兆しを重んじていきたい(←主に願望と幻想)。だから私は、あえてブラジルに行かなくてもいいと思っている(←これは屁理屈)。


サンバを味わうならリオに行きたいが、サッカーやフットサルを楽しむならサンパウロに行ってみたい。オスカー監督が、毎年のように日本のフットサルスクールからジュニア世代の選手を連れてサンパウロに遠征しているので、そういうツアーに同行するような形でいけるなら、何かとラクなのかも。。ただ、ぶっちゃけ、見たいと思うブラジルのサッカーチームが特にないので、それよりもFC東京やVEEX TOKYO Ladiesに時間とお金を費やしたい。遠くのスゴイ人たちよりも、近くの大切な人たち、である。

とはいうものの、せっかくブラジルまで行くのなら、できることならリオにもサンパウロにも行きたいバイーアも気になる。サンバのシーズンとサッカーやっフットサルのシーズンが同じような時期で、やりくりすれば短期間で満喫できるならいいが、そうもいかないのなら厄介だ。そんなことまで考えだすと本当に面倒くさい。いっそブラジルに住んでしまえばそんな問題はなくなるのかも。

面倒だ面倒だと言いながら、いっそ住んでしまえばいいと思えるくらいにはブラジルに惹かれているというこの矛盾。われながらどうかしていると思う。


このあたりで今回のコラムを締めくくろうと思ったが、エッセイの流れに汲み込めなかった要素について、1つ語らせてほしい。

浅草でサンバカーニバルが初開催されるよりも前、1968年に日本とブラジルを舞台にした映画「リオの若大将」が公開された。加山雄三が主演する若大将シリーズの第12弾。手掛けたのは、若大将シリーズの立役者の一人・岩内克己監督だ。

岩内監督が映画界を引退した後に、マスコミ人を育成するべく教育の道に入り、専門学校で映像に関する講義を行っていたことはあまり知られていないのではないだろうか。私は岩内監督、いや岩内先生のクラスで学んだ教え子の一人である。岩内先生とは卒業後も親交があり、学生時代の先輩が企画してくれた“岩内先生を囲んで映画を見る会”で、日本映画黄金時代の様々な裏話を聞かせてもらった。

若大将シリーズは、プログラムピクチャーと呼ばれる「お約束重視」の映画であり、どの作品もそれぞれ共通の基本設定を持つパラレルワールドのような世界で物語が進んでいく。ファンにとっては「待ってました」のお約束が痛快だが、若い作り手たちにとっては、そうしたマンネリが苦々しかったとか。それだけに岩内監督は「他の部分でどれだけ面白い演出をするかに賭けていた」のだそう。実際に、お約束と基本設定を守れば、あとは何をしても良かったのだという。“お約束とそれ以外”という視点は、若大将シリーズを味わう上で重要だと言えるだろう。

シリーズを通してすでにいろいろなパターンが出尽くしていたこともあり、岩内監督は「日本から一番離れた場所で撮ってやろう!」と考え、リオを舞台にした本作を思いついたのだという。いまほど海外旅行が手軽ではない時代、本作はかなりぶっ飛んだプロジェクトだったようだ。映画の中とはいえ、1960年代後半のリオデジャネイロの風景や、当時の日本人にとってブラジルがどんな場所だったのかが収められている作品としても貴重である。

作中には、海辺で楽器演奏に興じる少年たちのシーンが登場する。音楽を前面に押し出した「エレキの若大将」を手掛け、また、劇中で加山雄三にオリジナル曲を歌わせてレコードをヒットさせるなど、岩内監督は音楽を使った仕掛けに長けた監督だった。世の中にまだミュージックビデオがなかった時代に、こうした音楽と映像の融合は画期的だったわけだが、そんな岩内監督がブラジルで目にしたリアルな音楽風景を切り取って映画に挿し込んだ点も、地味ではあるが本作の見どころである。

海岸でのシーンについて、岩内監督に裏話を聞いたところ「海岸で、なんか演奏が始まったから、加山を呼んできてカメラを回したんだよ」と語っていた。岩内監督のアンテナに引っかかった、ということなのだろう。シナリオになかった場面が、作品にもたらした躍動感とリアリティ。そこに岩内監督の作家性が表れていると思う。ブラジル好きな方で、まだ観てない方は話のタネにいかがでしょうか。

なお岩内監督は2022年に96歳で逝去。もっといろんなお話を聞いておくべきだった。


気が付けば、リレーエッセイ始まって以来の長文になってしまった。書こうと思えばまだまだ書けるけど、さすがにいい加減にしておこう。ではでは、リレーエッセイ第14本目、このあたりで。

トミーくんお次をお願いします。9月下旬が多忙だったため、今回のエッセイ投稿まで間隔が空いちゃってごめんなさい。


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