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イヤサカ 第1章

あらすじ

山の民の現在の長は女王ナホである。しかしナホは実は女装した少年で、家臣の一族の女戦士ノジカと婚約していた。ある日のこと、山に海の民の戦士が押し寄せてくる。海の民の戦士たちは圧倒的な力をもって山の民をねじ伏せた。山の民は海の民に言われるがまま泣く泣く婚姻による同盟の提案を受け入れるが、女王であっても少年であるナホは海の民の族長アラクマと結婚することができない。代わりに山の民から差し出されたのはノジカだった。怒ったナホはアラクマを殺しに行こうとするが、あっさり返り討ちにあう。ノジカが旅立つ日、アラクマは代わりの人質として自分の弟オグマを山に置いていく。ナホはオグマから武術を教わることにする。


 マオキの族長イヌヒコが負けた。カンダチの族長と決闘をした結果だ。その身に幾太刀もの刃を浴びて倒れた。
 族長同士、対等な立場での、正々堂々とした戦いであった。戦を長引かせぬために必要とみなされた儀式であった。
 頭では分かっているのにナホは受け入れられない。
 イヌヒコの枕元に座っていたナホは、しばらくの間呆然と、布団の上に横たえたぼろぼろの身体、頬に血のかたまりをこびりつけたままのむくんだ顔を睨むように見つめていた。
「俺は負けていいなんて言っていない」
 口にした途端激しい感情が湧き起こってきた。山の民の命運を賭けておきながら敗北したイヌヒコへの怒り、ナホの愛するマオキの族長を斬ったカンダチの族長への怒り、そして何より、決闘することを提案されても黙って頷くことしかできなかった自分自身への怒りだ。
「ふざけるな! この先どうしてくれるんだ!」
 ナホが吠えた。
 その瞬間ナホの周囲に火花が散った。ナホを取り巻くように無数の炎の玉が浮かんだ。
 族長の傍に控えていたマオキの者たちが「ナホ様」「落ち着かれませ」と慌てふためいた。ある者は逃げ出して戸に近づき、ある者はその場にひれ伏して許しを乞うた。
 怒りの炎が燃え上がる。空気が爆ぜ、布団が焦げる。
 激情を抑えることができない。このまま何もかも焼き尽くしたい。気に入らない現実をすべて焼き払ってしまいたい。落ち着かない。落ち着けない。
 何もかも燃やしてしまおう。焼き払い、不都合な現実を灰にしてやる。
 しかし――ナホが立ち上がろうとしたその時だ。
 腕が伸びた。
「おやめください」
 ナホを横から強く抱き締めた。
 腕の主は戦士の装束をまとった若者だ。下ろしても肩辺りまでと短い髪を後頭部でひとつに結い上げている。肩の辺りは一見したところ華奢だが、その腕には強くしなやかな肉をつけていた。
「そのお力はこんな時に発揮するものではありません。父も悲しみます。お収めください」
 ともすれば男にも見えるが、ナホの頭を抱え込むその胸は柔らかく豊かに盛り上がっている。戦闘のあとで汗臭く土砂つちすなにまみれていても、鍛え上げられて筋張った手や腕をしていても、そのからだは本来まろくナホを惹きつけてやまない女のものだ。
「離れろノジカ。火傷をするぞ」
「少しくらい構いません。ノジカはナホ様の炎を恐ろしいとは思いません、ナホ様がノジカを焼き尽くしてしまうことはないと分かっておりますので」
 大きく息を吐きながら、少しずつ肩の力を抜いた。それに合わせて炎の玉がひとつずつ消えていった。焼ける臭いが収まり、こもった熱が冷めてゆく。
 ノジカの胸にこめかみを押しつけ、まぶたを下ろした。
 周囲から次々と安堵の息が聞こえた。
 ノジカの手が、ナホの豊かな黒髪を、丁寧に、丁寧に、撫でる。高く大きく結い上げてもなお垂らし髪が腰まで届くほど長い髪だ。ノジカはナホが癇癪を起こすたびにこうしてナホの髪を撫でた。
 気が休まってゆくのを覚える。現実が遠くなる。あまりの心地良さに怒りを忘れてしまう。
 ノジカには、敵わない。ノジカがだめと言うのならだめなのである。
 戸の向こう側から声がした。
「いつまでめそめそしてやがる!」
 若い男の荒々しい声だ。
「どうせ死ぬんだ! いまさらあれこれやったって無駄だぜ!」
「これからの話をしようや! これからの俺たちの未来の話をよ!」
 カンダチの戦士たちがきざはしの下から話し掛けてきている。
「あいつら」
 目を開け、拳を握り締めて起き上がろうとしたナホを、今度はマオキの長老会の一員である老婆が「おやめなされ」と制した。
「ナホ様はくれぐれも口を利いてはなりませぬぞ。今までどおりおとなしゅうしていてくだされ、このばばが何とか致しまする」
「でも――」
「なりませぬ」
 老婆の鋭い眼光がナホを射抜いた。
「けして、けして、ナホ様のお声を聞かせてはなりませぬぞ。ナホ様は、黙って、お座りになっていてくだされ」
 ナホは不満ながらも従うことにした。
 自分の立場を分かっていないわけではなかった。分かっているからこそ族長同士の決闘を黙って認めたのだ。自分がもっと聞き分けのないこどもだったら許可を出さなかっただろう――が、族長一族をもっと困らせることにはなっていたはずだ。
 これ以上ノジカを困らせたくない。
 ノジカがナホから体を離した。「じっとしていてください」と言いながらナホの装束の襟元をつかみ、整えた。帯もきつく締め直す。
 戦が長引けば戦士であるノジカが傷つくかもしれない。
 居住まいを正した。現状では、ノジカを守るためにはこれが一番いいのだ――そう自分に言い聞かせた。
「お入りくだされ」
 老婆が大きな声で言うと、階を上がってくる乱暴な足取りが聞こえてきた。
 戸が、破られたのかと思うほど勢いよく、開けられた。
 入ってきたのは、案の定、カンダチの若い戦士たちであった。二人連れで、いずれも筋骨隆々とした体躯をしている。顔や腕には刺青いれずみを施している。眼光は鋭いが口元は下品ににやついていた。
 こんな下卑た野蛮人どもに栄えあるマオキの戦士が敗れたのだ。
「おっ、死んだか?」
 男のうちの一人がイヌヒコの顔を覗き込んだ。
 あまりの屈辱にナホはふたたび拳を握り締めた。
 だが、この蛮族どもは強い。ナホが殴って押さえつけられる相手ではない。返り討ちにあうだろう。そして戦がふたたび始まる。
 さりげなく、何も言わず、ノジカへ手を伸ばした。ナホの隣で正座をしていたノジカは、ナホの手が自分の膝の上に来たことに気づくと、やはり無言で手を出し、軽く握ってくれた。
 もうひとつ、階を上がってくる音が聞こえてくる。
 出入り口の前で並んでいる二人を掻き分けるようにして、真ん中に三人目が現れた。
 体躯は三人の中で一番大きい。伸ばし放題の長い髪はところどころ小さく編み込まれている。右頬にはカンダチ族の紋章を彫り込んでいる。引き結んだ唇は厚い。切れ長の目の中の瞳はどこか冷たく、まだ若いはずだがすでに異様な威圧感を備えていた。
 カンダチの族長、アラクマだ。
 マオキの一同は何も言えずにただアラクマを眺めていた。
 この男がイヌヒコを斬ったのだ。族長が敵わなかった男だ、残っている人間では敵うわけがない。
 逆らえない。
 アラクマが、イヌヒコの足元辺りに腰を下ろした。
 自然、アラクマとナホが向かい合う形になった。
 ナホは無意識のうちにアラクマを睨みつけていた。
 ノジカが手を離したことで我に返った。自分は、泰然と、悠然と、超然とした態度を見せていなければならない。自分の立場を忘れてはならない。見つからないよう細く息を吐いた。
 アラクマが口を開いた。
「あんたが、神の火の山の女神――山裾に住まう全部族の長、ホカゲの女王ナホか」
 特に大声というわけでもないのに、低い声は重く響く。
「思っていたより若いな」
 老婆が「ナホ様は御年十七でいらっしゃる」と言う。アラクマが「そうか」と言って一人腕組みをする。
「ちょうどいい。俺は今年で二十一だ」
「ほう、それはいかような?」
「決まってる。和平と言ったら婚姻だ」
 にこりともせず、彼は手を伸ばした。
「俺の嫁になれ、女王ナホ」
 マオキの戦士たちが立ち上がった。老婆が「待て」と大声で制したが彼らはそれぞれの腰の剣に手をかけた。
 対するカンダチの戦士たちは動じない。アラクマが立ち上がることもなかったし、供に連れてきた二人もそれぞれが腕組みをして解くことはなかった。
「マオキの民はホカゲ一族を守れなかったんだ。素直に諦めて女王を手離せ」
「貴様――」
「どうしても嫌ならもう一回一から戦を始めてやろうか。俺たちは何度でもやってやる、お前らが屈服するまで何度でも、な」
 マオキの戦士たちは悔しさのあまりか呻き声を漏らした。しかし誰一人として実際に剣を構えようとまではしない。カンダチ族の強さを思い知らされたばかりだ。まして今は統率する代表者を欠いている。皆頭では分かっているのだ。
「何も悪い話じゃないだろう」
 アラクマがとうとうと語る。
「女王の一族を失ったところでマオキ族が山の最大勢力であることに変わりはない。むしろ、女神だか何だか知らねえがよく分からん怪しい呪術師を仰ぐのをやめて、強い戦士と広い田んぼを抱えたお前らがここらの代表者になる――大きな好機だ。俺たちカンダチ族はお前らマオキ族を正式な取り引き相手として認めてやろう。どうだ」
「ホカゲ族の侮辱は慎んでいただこう」
 老婆が唸る。
「そなたらにどう思われようとも我らマオキ族にとってホカゲ族は先祖代々お守りしてきた聖なる存在で至上の女神の血族なのだ」
「そうならなおのこと欲しい」
 初めて、アラクマが笑った。
「俺たちはもう欲しいものはあらかた手に入れた。海や川、石や土――そして今回お前らから巻き上げる食い物とくろがね。足りないのはただひとつ、俺らがお前ら山の民を服従させる理由になるもの――権威だ」
 ナホは唾を飲んだ。
「カンダチ族の血と山の女王の血をひとつにする。そしてカンダチ族がお前ら山の民の上に立つ。そのために、来い」
 まっすぐナホの目を見つめて言う。
「俺と夫婦めおとになれ、ナホ。俺の子を産め」
 ナホは何も言わなかった。
 ナホの結婚の決定権はナホにはない。ホカゲ族の血を守り引き継いできたマオキの皆が彼らの女王をどうするか決めるべきだ。
 受け入れようが拒もうが、いずれにせよ、アラクマがどれほど望んでもナホにはアラクマの子を産めない。
 この身が欲しいのならくれてやる、それでも女神の血はお前のものにはならない――そう言い放ってやりたい。
 だが、我慢だ。
 口を開いてはいけない。
 声を聞かせてはいけない。
 気づかれてはいけない。
 マオキ族以外の人間に、今目の前にいる女神が――長い艶やかな黒髪を結い上げ、瑪瑙や翡翠の宝玉で身を飾り、白粉おしろいと紅で化粧を施している生き物が、実は、少年であることなど、絶対に悟られてはいけない。
 山のすべての部族の上に君臨する王は、神の火の山の女神と同じ、女でなければならない。
 ナホの生身の少年である声を聞かせてはならない。
 老婆が語気を強くして答えた。
「お断りする。ナホ様は神聖な身、たとえ新たな王となるお方が相手であったとしても山の民でない者と契るわけにはいかぬ。まして今のホカゲ族にはナホ様の他に神の力を使える娘がおらぬ、ナホ様がこの山を離れては聖なる力が絶えてしまうであろう。神の火の山を祀るマオキの民においては、ホカゲの女王を失うことはマオキ族が滅亡するより恐ろしきことじゃ」
 ナホは背筋を伸ばした。安心して息を吐いた。マオキの皆はそれでも自分を守ってくれる。
 そう思っていたのに、老婆は次の時、こんなことを言い出した。
「だが血をひとつにより合わせて山の未来をつくっていくことはお受けしたく存ずる。マオキの娘の中から嫁を出そうぞ」
 カンダチの男のうちの一人が唸った。
「うちの族長に見合う女だろうな。カンダチ族がよそ者だからって馬鹿にしてもらっちゃ困るぜ」
「むろん、アラクマ殿をそなたたちの王と見てふさわしい身分の娘を提供させていただく」
 老婆が続ける。
「族長に娘が二人ある」
 部屋の奥から転がり出るようにひとりの娘が現れた。長く美しい黒髪の、大きな目のまだあどけない少女だ。
「テフですか」
 少女――族長の次女、十三歳のテフが言う。
「テフがナホ様の代わりにお嫁に行けばいいのですか」
 アラクマが顔をしかめる。
「こんなガキを? もう月のものはあるのか?」
 老婆が首を横に振った。テフが青い顔をしてうつむいた。
 嫌な予感がした。テフではない、ということは――
「上の娘は十九だ」
 血の気が引くのを感じた。
「持ってゆけ」
 ナホの隣で、ノジカが立ち上がった。
「……女?」
 アラクマが立ち上がる。ノジカと睨むように見つめ合う。
「男じゃないのか」
 ノジカが息を飲んだのが分かった。
 叫び出したかった。
 ノジカは厳密には独身ではないはずだ。まだ祝言は挙げていないがずっと前からナホのものと決まっていたのだ。
 俺のものだと――
「こんななりで残念だが、私も一応マオキの姫だ」
 他の誰にも渡さないと、叫べれば――
「ノジカ」
 老婆が問う。
「念のために確認しておくが、そなたまだ生娘じゃな?」
 唇を引き結びつつ、ノジカは頷いた。
「まだ。夫婦約束は、まだ、ただの夫婦約束です」
 アラクマが乱暴な足取りで歩み寄ってきた。
 ナホは焦った。けれど何をしたらいいのか分からなかった。声は出してはいけない。マオキの皆を、ノジカを困らせてはいけない。
 アラクマが手を伸ばした。
 大きな、骨の太さを感じる手が、乱暴にノジカの左胸をつかんだ。
 まだナホも触れたことのないノジカのからだに触れた。
「なるほど、本当に女なんだな」
 ノジカが歯を食いしばったのが分かった。震える手を握り締め、黙って屈辱に耐えている。
「いい女だ。気に入った」
 手を離し、ノジカの肩を抱いた。ノジカはただ無言でアラクマを睨みつけていた。
「待ってください」
 テフがアラクマに縋りつく。
「テフが行きます! ノジカ姉さまにはもう決まったおひとがいるのです、テフにしてください!」
 ノジカがテフをたしなめる。
「やめなさい。お前はまだこどもだ。私が行く」
「でも――」
「カンダチ族とマオキ族の和平は、とても、大事なものだから。私はもう十九だし、私ひとりが耐えて済むのなら、私はそうしてほしい」
 そして、ナホの顔を見た。
 その時のノジカの目は優しく、また哀しく、しかしどこか力強くて、
「ノジカは、ノジカがいなくても、ナホ様は正しく民を導いてくださるものだと、かたく信じておりますので。ナホ様は、今までどおり、山裾の全部族の女王で、神の火の山の女神でいてくださいませ」
 ナホの心を打ち砕くのには、充分すぎた。
「たとえお別れになっても、ノジカの心は、いつも、ナホ様のお傍に」

 殺すしかない。
 夜、ナホはひとり鉄剣を握り締めて自分の館を出た。
 臣下の誰にも見つからないよう気を配った。戸にはわざと一度手を挟み、土は裸足で踏み締め、辺りを注意深く窺いながらアラクマの寝所として貸し出している家へ向かった。
 ナホも分かってはいた。
 族長がマオキの村で殺されたとなればカンダチ族はマオキ族に報復するだろう。終わるはずだった戦がふたたび始まる。その上、手にかけたのがホカゲの女王だと知れたら、ホカゲ族を神と仰いできた民はどう思うだろうか。離反するのではなかろうか。援軍が来ないどころか戦が終わったあとの暮らしが危ぶまれる。
 カンダチ族との和平がならず、救いの手がどこからも来なかった場合は、自分やマオキの皆は、死ぬか、生きても奴隷におちるかもしれない。
 自分は何もするべきではない。黙って皆の美しく高貴な女神を演じるべきだ。マオキ族とカンダチ族の同盟を認め、見守り、育むことを勧めるべきだ。
 でも嫌だ。
 このままではノジカがとられる。
 ノジカがマオキの村を――自分の傍を離れる。アラクマのものに――自分以外の男のものになる。
 絶対に嫌だ。
 あの男は、自分がまだ触れたことのないノジカのからだに触れた。しかも無遠慮に大勢の者たちの前で辱めた。
 もう殺すしかない。
 あの男は強い。歴戦の猛者であるマオキの族長と決闘をして無傷で勝利した。体格もナホより一回り大きい。蛮勇を誇るカンダチ族の長を務めているだけある。
 対するナホには実戦経験がない。運動能力にはそれなりの自信があったが、武術はイヌヒコやその息子であるノジカの兄に護身術として習った程度で、剣術も体術もノジカにすら太刀打ちできない。女王を装うため必要以上の筋肉をつけないよう気を配ってきたこともあってか、腕も足腰も同世代の少年たちより細かった。
 寝首を掻くほかに勝ち目はない。
 カンダチ族のほか二人は別棟で寝ている。アラクマは一人で寝ているはずだ。
 震える手で、簾を、ゆっくり持ち上げた。
 窓から屋内に差し入る光が明るい。今宵は晴れ、しかも月はそろそろ満ちる頃でとても大きい。
 真ん中で布団に横たわるアラクマが見えた。
 今だ。今なら殺せる。
 息を殺して歩み寄る。胸のすぐ横にしゃがみ込む。鉄剣の柄を両手で握り締める。
 振りかざす。
 あとはまっすぐ下へ突き刺すだけだ。
 殺せる。
 そう思ったのに――脇腹に重い衝撃が走った。一瞬息ができなくなった。あばら骨が軋んだ。
 体が横に吹っ飛んだ。鉄剣が地面に転がった。
 何が起こったのかナホにはまったく分からなかった。片方の肘をついて上半身を起こしたが息をするだけでせいいっぱいだ。自分の置かれている状況が認識できない。
 ふたたび腹に衝撃を感じた。今度は真下から臍の辺りを持ち上げるように打たれた。
 体を引っくり返され、仰向けになってから、分かった。
 すぐそこに、アラクマが立っていた。
 アラクマは起きていたのだ。起きて、ナホが近づいてくるのを待って、ナホの腹を殴ったのだ。ナホが崩れ落ちたところで起き上がり、次は下から足を差し入れる形で蹴りを入れた。
 瞳が月光で輝いていた。その鋭い光は獣の目のようだった。
 アラクマの左腕が伸びた。
 ナホの着物の胸をつかんで、強引に上へ引き上げた。ナホは引きずられるがまま上体を起こさざるをえなかった。
 ナホの体が起き上がると、アラクマは右の拳を振り上げた。
 抵抗どころか、声を上げる間すらナホには与えられなかった。
 アラクマの拳が、ナホの左頬にめり込んだ。
 殴られた。
 生まれて初めてのことだった。
 口の中に鉄の味が広がった。
 勢いに勝てず、また床に転がった。床にうつ伏せて呻いた。
 呼吸もできない。
 徐々に痛みを感じ始めた。重い痛みだ。耐えられそうにない。だが混乱していて痛いと言うこともできない。声すら出せないのだ。
 髪をつかまれた。ひとつに束ねられた髪の根元を握られ、頭を上へ引っ張られた。痛いが抵抗できない。少しでも痛みを避けるために顎を上げて顔を見せるしかない。
 月明かりに照らされ、アラクマの頬の刺青が見えた。
 アラクマの顔に表情はなかった。変わらず、獣のような目でナホを見つめていた。
「なんだ、ガキか」
 声音も落ち着いている。
「見たことのないツラだな。お前、戦場いくさばにも族長の館にもいなかっただろ。まだ戦慣れしてねえんだな、無理すんな」
 とても先ほどまで命を狙われていた人間の言葉とは思えない。
 ナホが起き上がり、その場に正座をする形で座ったのを見てから、アラクマはナホの髪から手を離した。
 ナホは悔しいとすら思えなかった。圧倒的な敗北だ。一人で忍び込んだ自分を愚かだと思うくらい何もできない。座ったままうつむいてアラクマの反応を待つことしかできそうになかった。
 これがカンダチの戦士なのだ。
 殺せるわけがなかった。
 むしろ、殺されるかもしれない。
「誰の差し金で来た? 長老のばばあか? 族長のせがれか? それとも女王ナホか」
 ナホは口を開かなかった。自分が女王本人だと発覚するのを懸念したわけではない。ただただアラクマが恐ろしくて全身が固まっているだけである。
「答えろ。素直に答えたら命だけは取らないでやる」
 一度心の臓が凍りついた。答えなかったら命を取られる――そう思い慌てて口を開いた。
「誰かに命令されたわけじゃない」
「庇うのか? イイコだな」
「違う」
 この雰囲気で嘘をつけるほど器用ではなかった。わずかにどもりながら何とか声を吐き出す。
「ただ、俺は、あんたが死ねば」
 しかし、だ。
「ノジカを連れていかれずに済むと思って――」
 その名を口にした途端力が戻ってきた。
 攻撃的な強い感情が噴き出す。怒りだ。怒りが湧いてきたのだ。
 拳を握り締めた。
 やはり殺したい。
 眼球を動かして剣を探した。アラクマの背後、布団の足元の方に転がっていた。手を伸ばしても届く距離ではない。何か他の方法を考えなければならない。
「ノジカ?」
 一拍間を置いてから「ああ、族長の娘か」と呟く。
「お前、あの男みたいな女に惚れてんのか」
 胸の奥底で怒りが爆ぜる。神の火の山から噴き上げる炎の岩のようにナホの体内を焼いて荒れ狂う。
「わざわざこんなことまでするくらいだ、よっぽどいい女なんだな。初夜が楽しみになってきたぞ」
 今度はナホの方から腕を伸ばした。アラクマをつかんで引きずり倒したいと思ったのだ。
 アラクマの手が持ち上がってナホの両手首を横から叩き落とすように打った。ナホの手首を自らの腕で巻き込み、捻り上げた。
 不思議と痛みは感じなかった。
 ただ悔しい。
 絶対にゆるさない。
 全身が熱くなった。
 目の前に火の粉が散った。
 部屋が瞬間的に明るくなった。アラクマが両目を見開いたのが分かった。
 アラクマは跳びすさった。顔を庇うように両腕を交差させた。
 空気に火花が散っている。
 ナホはもう一度手を伸ばした。
 その手に火がつく。手首から肩へ炎が蛇のように巻きつく。
 怒りが炎の揺らめきとなって立ち昇る。
「おい、待て」
 アラクマの顔に初めて表情が浮かんだ。きっと焦りだ。眉根を寄せ、目を見開いてナホのまとう炎を見つめている。ナホが近づくたびに一歩ずつ後ろへ下がっていく。
 獣は炎が怖いのだ。
 気分がいいと、そう思ったのに、
「それが神の火の山の女神の力か」
 言われてから気がついた。
「お前、ホカゲ族なのか」
 ナホの頭が冷静になったのに反応してか、炎はすぐさま消えた。辺りが暗くなった。明かりが月光だけになり視界が心もとなくなった。
「化け物か……!?」
 この力を異民族の前で使ってはならない。この力が使えるのはこの世で唯一ホカゲの女王である自分だけなのだ。自分が女王ナホであることが割れてしまう。
 ホカゲの女王の正体が少年であることを知られてはならない。ホカゲの女王が女神ではないことを知られたら、マオキ族だけではない、神の火の山のふもとに住まうすべての民が混乱する。もっと大きな戦になる。
 逃げなければと思った。
 立ち上がり、出入り口の方へ向かって駆け出した。
「待て」
 簾に体当たりをしてぶち破り、星空の下へ飛び降りた。剣のことは振り返らないことにした。貴重な鉄だが自分の身元が特定されるものではない。そんなことよりも自分がこのままカンダチ族に捕まってしまうことの方が問題だ。
 走って、走って、森の中に逃げ込んだ。
 途中、木の根につまずいた。顔面から地面に倒れ込んだ。
 足が止まってから、アラクマは追ってきていないことに気づいた。どうやら逃げ切れたらしい。
 逃げてきたのか。
 そのまま地面に突っ伏した。
 ノジカを取り戻すどころか、アラクマの身体に傷ひとつつけることもできずに、敗走したのだ。
 やっと、自分を無様だと認識した。敗北を噛み締めた。
 自分はアラクマにまったく太刀打ちできなかった。相手が悪かったのかもしれないが、それにしても弱すぎる気がする。
 女王ナホが少年であると発覚する危険を冒してまで、いったい何をしに行ったのだろう。
 しばらくその場に伏せたまま泣いた。

 次の日の朝、マオキの女たちはノジカに花嫁衣装を着せた。
 ノジカをマオキの戦士として男と同等に認めていた女たちが、今日はノジカを綺麗だの美しいだのと言う。確かにナホも、髪を下ろし紅をひいたノジカは、今まで見てきた中で一番美しいと思った。しかしこれは別れの儀式でもある。そういうノジカを見るのは今日が最初で最後だ。虚しいことこの上なかった。
 とうのノジカ本人は何を言われても平然とした顔で「ありがとう」としか言わない。
 ノジカは女王ナホとマオキ族を守るために嫁ぐ。その務めがいかに重要か理解していて受け入れている。
 抵抗しているのはナホひとりだけだったらしい。自分が無力であることを悟った。
 殴られて青くなった頬に白粉をはたいて、髪を結い上げ、女王の正装をまとってノジカを見送る。声を掛けることも許されない。諦めたくはなかったが何もできない。ノジカ自身がすすんでそうするのに、自分が邪魔をするわけにはいかない。
 最後、ノジカはナホに一言、こう告げた。
「ゆめゆめ軽率なことはなさいませんよう」
 ナホは奥歯を食いしばって涙を堪えた。
 彼女のためにも女王でいなければと自分に言い聞かせた。彼女に泣き虫でわがままな王子だと思われたままではいけない。もうひとの手を煩わせることはないおとなになったのだと信じて旅立ってほしい。
 おとなになりたい。

 ここでひとつ予想外のことが起きた。
 マオキの者たちは皆ノジカを明け渡したら終わりだと思い込んでいた。
 見送るナホとマオキ族一同の前に、帰り支度をするカンダチの戦士たちの間から、二人の人物が出てきた。
 一人はアラクマだ。もう一人の着物の胸倉をつかんで、引きずって歩いてきている。花嫁を迎えたにもかかわらず昨日と変わらぬ不愛想な顔をしていた。
 もう一人は――もう一人も、アラクマだった。
 伸び放題の髪も、悪い目つきや厚い唇も、鍛え上げられたたくましい体躯も、何もかもがアラクマだった。ただ顔の刺青だけが先を歩いてくるアラクマとは左右対称だ。
 マオキ族一同が動揺してざわめいた。
「こいつをここに置いていく」
 片割れの胸倉をつかんでいる方が言う。
「マオキ族から嫁を取るだけじゃ公平とは言えないからな。カンダチ族からもひとを出す、同盟の証だ。女王の夫にしてくれたら嬉しいが、兵士でも召し使いでも好きに使ってやってくれ」
 そして、強引に前へ行かせた。
 引きずってこられた方が、握手を求めたのか片手を差し出してきた。やはり、不愛想そうな顔をしたまま、だ。
「カンダチの戦士のひとり、族長アラクマの双子の弟、オグマだ。よろしく頼む」


第1章:https://note.com/hizaki2820/n/n50f7e0d84cc1
第2章:https://note.com/hizaki2820/n/n38dc40c12fcf
第3章:https://note.com/hizaki2820/n/n075bcfc95d4e
第4章:https://note.com/hizaki2820/n/ne118e8987bc0
第5章:https://note.com/hizaki2820/n/nc7abf93ea1ef
第6章:https://note.com/hizaki2820/n/nf97d356d1791
第7章:https://note.com/hizaki2820/n/n52982e0af092
第8章:https://note.com/hizaki2820/n/ne248d8a04975
第9章:https://note.com/hizaki2820/n/ne0b989766113


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