毒親と、私が過ごしてきた日常
今日は私が毒親から逃れるまでに過ごした日常を簡単に残そうと思う。
私の両親は、世間で言う【毒親】に該当する。
両親と言っても、私が幼稚園生の頃に母の不倫と金遣いの荒さが原因で両親は離婚し、私の親権を持つ父は離婚から間もなく再婚したので父とは血縁関係にあるが母は全くの赤の他人である。
この、【赤の他人である母】から暴力を振られることは日常茶飯事だったし、言葉の暴力も凄まじかった。
しかし、父は単身赴任生活だったので月に1、2回顔を合わすくらいで、私が言わない限り家で何が起きているのかを気づくこともなかった。
父に助けを求める前にどうにか解決したくて、学校の先生や警察に助けを求めたこともあったが、周りの大人は、
『しつけの一貫ですから。』
と外面だけはいい母の言葉をあっさりと信じ、SOSを訴えれば訴えるほど私は、
『嘘は良くないよ。』だの『お母さんの言うことを聞こうね。』
と言われ、まるで問題児扱い。
何一つ信じてもらえなければ、助け出してくれる大人はいなかった。
そんな状況が続き、【心配をかけたくない】という思いから、これまで躊躇っていたが父に助けを求めることをようやく決意した。
母から暴力を振られるようになって6年が経ち、私が中学に進学するタイミングで打ち明けた。
父だけは、【助けてくれる】と、本気でそう思っていた。でも現実は違った。
言葉巧みな母に騙され、
『お前が言うことを聞かないからだ。』
と言うのである。
【もう一生このままなのか】
と中学生になった私は半ば半分、この日常から抜け出すことを諦めていた。
私が高校生になる頃には父の単身赴任生活が終わり、毎日顔を合わせることが当たり前になった。
これなら母もやりたい放題できないだろう、と安心しきっていた。
しかし、状況はもっと悪化した。
父が仕事で家にいない間は、母から相変わらずの暴力を受け、母が仕事で家にいない間に父は何度も私を犯した。
母のことを信じた父だけど、それでも父だけは信じていたのに。
身体を洗っても洗っても、血が滲むほど擦っても、気持ち悪さと絶望だけが私の中に残る。
そんな日々を過ごしながらも、私の高校生活の終わりが刻一刻と迫っていた。進学するクラスメイトが多い中、
【一刻も早く家を出たい】
という思いから、私は進学したい気持ちを捨てて就職することを選択した。
一人暮らしをしたいと言えば、『全部自分で払え。』と言われ、到底これまでのバイトで貯めたお金じゃ足りないし、大学に進学したいなんて言おうものなら、『誰の金で通うことができるか分かってるのか』と親のいる有難みをちらつかされ、家で絶対服従の生活になることは目に見えていた。
就職すれば、自分で稼いだお金で家を出ることができる。
当時そう考え就職を選択したことは、今でも【本当に良かった】と思う。
高校卒業後、私は某アパレル会社に就職した。
配属された職場は、地元の繁華街にあるデパートの中のショップだった。アットホームで人間関係も良く、社会人として、人として学ぶことが多く何不自由なく仕事のできる毎日が楽しかった。
けれど、毒親というものは
【傷つけてくるわりに異常なほど干渉してくる生き物】
で、入社して半年が経つ頃に、同じデパートで母が働き始めた。それも万引き犯を捕まえる仕事だったので母は自由にデパート内を移動することができてしまう。
勿論、私がいるショップにもいつでも来ることができるわけで、
【居場所を失った】
と思った。
予想通り、私に会う用事などないのに母は、
『巡回。』
と言ってはよくショップに来るようになった。
何も知らない私の上司たちは、
『お母さんと仲良いんだね。』
なんて言ってくる始末。
『仲良いどころか家で常に殺されそうになってます。』
なんて言えるはずもなく適当に流しながら、幸いにも人前なので何も恐れることはないが、
【巡回という名の監視】
に気が滅入る毎日を送ることとなった。
何歳になっても、どこに行っても、
まるで解放されることのない呪縛
のように付き纏う毒親。
何度、自殺しかけたことか。どれだけの殺意が芽生えたことか。
今でも思い出すたびに、感情が酷く荒れる。
事細かに文字に残すと、映画でもできるのではないかと思うほど長くなってしまうので、これでもかなり要約した。
次回は、【毒親から逃れるために私がしたこと】についてまとめようと思う。