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【BL小説】shoestring

 ガラス張りの部屋の向こうで、カラフルな色のついた動物の革が洗濯物みたいに吊るされていた。
 いかにも皮革製品って感じの黒や茶だけじゃなくって、青だのピンクだのバリエーションだけでも数えきれないくらいだ。
 それらの革は鞄や靴に加工されるまで、湿度70%に保たれたこの密室で眠りについている。
 かつて生き物だった面影は無いに等しい。
 だが、無機質とも程遠い。
「めっちゃ綺麗な山賊の宝物殿みたい」
 日本語でそう言った俺の言葉を、いらんことに先輩はわざわざイタリア語に訳した。
 工場長は朗らかな笑い声をあげた。
 年はうちのじいちゃんと同じくらいか少し上に見える。
 高級レザーだけが集められたこの特別室に出入り出来るのは工場長だけだそうだ。
 先輩にイタリアの片田舎に連れてこられた時はなにがなんだかわけがわからなかったが、要するに工場見学デートらしい。
 せっかくの夏休みなのに地味が過ぎるだろ。
「ここにあるのは何の動物の革なんですか?」
 先輩が流暢なイタリア語で工場長に尋ねたのはそういう意味らしい。
 全然わからんからぼーっとしていた俺にも律儀に説明してくれてる。
 翻訳アプリ要らずだ。
 以下、全部先輩が日本語とイタリア語のラリーで会話してくれているが、面倒なのでいちいち説明しないことにする。
 先輩は大学では寡黙と思われがちだが、元々声は通るし滑舌もいい。
 俺以外と喋る時は口数が少なめなのがちょっと惜しいなと思わせる。
「クロコダイル、アリゲーター、パイソン……クロコダイルといっても原産国はオーストラリアだったり、エジプトだったりします。国が変われば革の質もまた変わります」
 工場長は自分の子供や孫を自慢するみたいな、穏やかだが自信たっぷりな感じでそう言った。
 俺は思ったままに口走ったことを後悔した。
 ここにある革は大人が決めた法律で、真っ当な取引をして並べられている。
 フェアトレード商品ってやつだ。
 いくつもの国のたくさんの人の手でそうやって今までやってきたに違いない。

 靴を作っている工房に入ると、たくさんの従業員が黙々と各自の作業に明け暮れていた。
 イタリア人に紛れて、アジア系やアフリカ系と思しき人もいる。
 年齢層は様々。
 男女の比率は7:3くらいだろうか。
 工房の中は窓から自然光が取り入れられていて、革本来の色味が目で見てわかるようになっている。
 最新鋭の機械を使う作業も多いが、手作業も多い。
 どちらにしろ、熟練の職人技が必要だと工場長が説明してくれた。
 例えば革専門の選別スタッフは1日で500メートルほどの革を毎日チェックしているそうだ。
 考えただけで気が遠くなる。
「働くって大変なんだな……」
 俺がしみじみそう言うと、先輩も頷いた。
「そうだな。中でもモノ作りは本当に根気が要る作業だ」
「革には動物の生き様が反映されているんですよ。革に傷があったり、硬いところや柔らかいところがあるのはその動物一体一体の個性です。それを取り除いたり使い分けることで革小物の質をコントロール出来るんです」
「生命を頂戴するのは食事だけではないんですね」
 先輩の思慮深い黒い瞳が目の前で裁断されていく革の動きを追っている。
 動物が解体されていく様ってのは、きっと何代も前の先祖が見てきた光景だ。
 DNAの奥底に刻まれた記憶がそうさせるのか、その工程からは俺も目が離せなかった。
 俺達は現代人だから、自分の身に纏うものを選別して手作りする必要なんかない。
 ほんの数百年前までの人間がやっていたことを幾何かのカネと引き換えに他人に託して生きている。
 それはとても贅沢なことに思えてきた。
 
 応接室に通され、先輩は黒地に金色でブランド名が箔押しされている長細い箱を工場長から受け取った。
「この田舎町に靴をオーダーメイドするために訪れる日本人は多いのですが、作業工程まで見学したいと仰る方は稀ですよ。どうぞ末長くご愛用下さい」
「ありがとうございました。今履いてみてもよろしいですか?」
 工場長は快諾した。
 先輩はソファー(これも今まで見た中で一番高級そうな革張り)に腰掛け、ガラス製品でも触るみたいに慎重に靴を取り出した。
 靴底に突起のある一枚革の靴に足を通した途端、めったに微笑まない先輩の双眸は優しげに弧を描いた。
「とても軽いです。革靴とは思えないくらいに」
 その場に立って、部屋の中を何回か往復している。
 今Tシャツにジーンズなのが惜しいな。
 スーツ姿ならどこのモデルだよって思うくらいにはかっこいいはずだ。
 獣の成れの果てを身に纏っても、全然装備に負けてない。
 こんな屈強な雄に組み敷かれる革は幸せだと思う。
「お連れの方も大人になったらぜひ当工場の靴をよろしくお願いします」
 俺は背が低いから、どうも実年齢より幼く見られる傾向がある。
 でも、じいちゃんくらいの年の人から見たらまだまだ子供なのは間違いないし、なによりこの人じいちゃんにちょっと似てるから、素直に頷いた。

 ホテルの部屋に戻って筋トレをしながら、俺は訊いた。
「やっぱりオーダーメイドの靴っていいのか? 正直なにがいいんだかよくわからなかった」
「面白くなかったか。悪いことをしたな」
「いや、履いてないからだよ? 工場見学自体はわりと楽しかったよ。こんな経験、滅多に出来ないからな」
「じゃあ履いてみるか?」
 隣のベッドでやっぱり筋トレをしていた先輩は出来たての靴を俺に寄越した。
 恐る恐る足を通したら、異様に甲がガバガバだった。
「先輩の足ってもしかして甲高なのか?」
「甲高は既製品の靴が悉く入らないんだ。必要に迫られて作っただけで、贅沢したいわけじゃない。就活に変な靴は履いていけないだろ」
「巨乳がリアル店舗でブラジャー買えないみたいなもんか」
「そのたとえはどうかと思うが……まあ、そうだ」
「ふーん。大変なんだな」
 ガバガバの靴の底を踵で押していると、先輩は急にふにゃふにゃした顔つきになった。
 酔っぱらってるみたいな。
「差し出された靴に足が入ったら結婚しなきゃならない話を知っているか?」
「シンデレラのことか? 俺はカボチャの馬車に乗った覚えはねーぞ」
「俺のバイクの後ろにはしょっちゅう乗ってるだろ」
「そういうのこじつけって言うんだぞ……俺の身長じゃハーレーなんか乗っても似合わないし」
 脱いで揃えた靴を箱に入れて返すと、先輩はなにがおかしいんだかまだニヤニヤしていた。
「国が変われば革の質も変わるというのは人間も同じだろうな」
「まあ皮膚の色からして違うもんな。俺と先輩でも」
 先輩は生粋の日本人。
 俺、リアム・アンダーソンは日本生まれ日本育ちのイギリス人だ。
 ブリティッシュイングリッシュもまともに喋れない、実質日本人みたいなイギリス人。
 一方、先輩はトリリンガルだ。
 頭の出来が違う。
「俺とリアムとじゃ違う味ってことか……舐めてみるか」
「は?」
「手伸ばしてくれ。指先だけ舐めてみる」
「もう決めてんの? なにそれ、どういう趣味だよ……」
 俺がドン引きしていると、先輩は問答無用で俺の左手を取り、人さし指の先を吸った。
 そのあとで自分の親指の先も吸った。
「本当だ……全然味が違う。俺のほうが若干塩味だ」
「マジかよ? それ、手汗じゃねーの?」
「嘘だと思うならリアムも味見してみろ」
 食材みたいな言い方されたのが気になったが、俺は促されるまま自分と先輩の指の味を確かめた。
「確かに俺のほうが微妙に乳臭い感じがする。てゆーか指先なんかより唇のほうが味が濃いんじゃね?」
 俺は本当に何の気なしに、実に自然な流れで、なぜかそうしてしまった。
 うっかり俺に唇を奪われた先輩は見事に狼狽した。
「リアム……どうして……」
「あっ……ごめん。キス、初めてだった?」
「いや、そっちこそ……」
 どうだっけ?
「あっ、初めてだ! まあこんな事故みたいなのノーカウントで……」
「無理だ! 忘れられるわけない……」
「乙女かよ。顔真っ赤だぜ」
「もういい! この際だからちゃんとしよう!」
 先輩はなにをトチ狂ったのか、俺を抱き寄せて熱烈に唇を奪ってきた。
「これでもうハプニングじゃない……正当なキスだ……」
「いや、なにをもって正当なんだかわかんねーんだけど……まあお前がいいなら、それでいいよ。で、何味だった?」
「えっ……覚えてない……」
 実に余裕のなさそうな表情でそう言うから、ここで初めて俺もキュンとした。
「じゃあ、またしてもいいよ。気が済むまで味わって」
 冷静に考えたら結構大胆なこと口走ってた。
 すっかり真に受けた先輩はゆっくりじっくり、俺の唇を欲しがった。
 生命そのものみたいな吐息が流れこむと、俺も求めずにはいられなくなった。
 食らいついていく。
「蜂蜜みたいな味」
 それ昼に食べたパンケーキのシロップじゃないかな?
 とか思ったけど黙ってた。
 
 俺とのキスに満足したのか、先輩は出来たての靴の箱を抱きしめながら眠ってしまった。
 存外幼いその表情は、お気に入りのオモチャを買ってもらってた頃と多分変わってないんだと思う。
 目覚めた時にはまた、俺を味わってもらいたくなるくらいには心揺さぶられる光景だった。

 夏休みが終わってから初めて先輩を見かけたのは学生食堂でだった。
 帰国後、あのキスが気まずかったのか、俺が連絡しても既読無視を繰り返していた。
 事情が事情だし、向こうが忙しいのも知っていたから俺も我慢していたけど、姿を見てしまった以上はもう声をかけるしかなかった。
「てめー! 安藤!」
「先輩を呼び捨てか。フライドポテト食うか」
 なんでフライドポテト?
 メシと一緒に食ってんの?
 カロリーオーバーじゃね?
 もう言いたいことがマッターホルン級の山積みだ。
 俺は差し出されたフライドポテトを口で受け取って咀嚼した。
 向かいの席に陣取るのも忘れない。
「リアムは目立つよな。その金髪」
「天然モノだからな。で? 先輩は? なんで金髪に?」
 イタリア旅行中は確かに黒髪だった。
 来年就活とか言って、なんでこのタイミングで金髪にしちまったかな。
 これはぜひ訊いておきたい。
「既読無視したこと怒らないで髪の色いじってくるとかリアムは本当に優しいな」
「いや、怒ってますけど普通に。ただ、真面目が服着て歩いてるようなお前が髪染めるとか、明日雪でも降るのかな? とは思うよ、おい、理由を簡潔に述べよ」
「俺とリアムって人種が違うから、味が違っただろ」
「人間が違えばもう別の味だろうね。そんで?」
「せめて髪の色くらいお揃いにしたかった。就活始めるまでの期間限定カラーだけどな」
「もうプリンになってんじゃん。染めたなら即見せろや。寂しいだろ」
「悲しいくらい似合ってないから、見られたくなかった」
「乙女か! そんなん染める前からわかりきってたやん? 先輩、頭いいけどアホだな。可愛い。大好き」
 雑にコクってもーた……
 気まずくて俯いていたら、またフライドポテトがテーブルの上を泳いできた。
「リアム、好きだろ? フライドポテト」
「ああ、スコーンよりは、よっぽど」
「俺も好きだ……フライドポテト。特にシューストリング」
「シューストリング?」
「長細いタイプのフライドポテトのことだ。リアムの好きなものを食べている間、俺はリアムを感じていられる」
「え……そういう理由? そんなん食う暇あるなら返事しろや。髪色変えたなら見せろや。本当、そういうとこだぞ、先輩さんよお……」
「感じているぶんには耐えられる。だが、こうして直接顔を合わせると、イタリアでのことを思い出してしまう」
 めっちゃ意識しとるんやないかい。
 そっか、両想いか。
 嬉しいけど、ちょっとダメだな。
 就活始まる前にこの先輩を真人間に、あの誠実な先輩に引き戻さなければいけない。
「今、あんまり人いねーからもうここで話すわ。先輩はあのカッコイイ靴で自分の未来見つけにいこうぜ。あの日のことは一旦頭の隅に追いやったほうがよくね? 言いたかないが、今の先輩の行動相当ダサいですよ?」
「えっ、今可愛いと言ったその口で……リアムの口は天使と悪魔が同居しているのか?」
「知らん。多分おらん。シャキッとしろや。社会人にリーチかかってるんだから、報告と連絡と相談は絶対しなさいよ。話はそれからよ」
「ホウレンソウ」
「そう、仕事も恋もホウレンソウよ。わかった?」
 恋とか言っちゃったよ。
 ああもう、こんなムードのカケラもないところで。
 イタリアでの日々が懐かしいぜ。
「わかった。浮かれてどうかしていた。髪も黒に戻す」
「あああ! それはちょっと待って!」
 今の俺の行動も相当ダサいですよ。
 咄嗟にスマホを取り出して、俺と先輩のツーショット写真を撮った。
「貴重な髪色お揃い写真ゲットォー!」
「なるほど、リアムも浮かれてどうかしているんだな」
「どうかするわ、そんなん! チクショウ、カッコイイ!」
 写真と本物を見比べる。
 最初は顔だった。
 顔がカッコイイと思っていた。
 知れば知るほど、考え方も生き方もカッコイイと思った。
 なにより、髪も目も肌の色も違う俺を、特別扱いしないでいてくれた。
 だから、このひとの特別になりたいと願ってきた。
「プリンになる前にこうしていれば良かったな」
「ホンマそれ。ふざけんな。髪の色変わったら味変あるかどーか確かめたくなった。お前、先輩なんだから奢れ。ホテル代」
「ホテル代?」
「そーゆーオトボケいらんわ。ラブのホテル代を払え。俺が就職するまでは払え」
「いきなり飛ばしてくるよな」
「慰謝料に決まってるだろ。既読無視で可愛い後輩を傷つけた慰謝料」
「へえ。俺に傷モノにされたいと。そういう申し出なのか」
 声が色っぽいのがもうダメだ。
 自分の考えの至らなさを悔いた。
 果たしてラブのホテルでこの声を独占して、俺は生きて家に帰れるのかを全く想定していなかった。
 純情。
 俺はとても純情だ。
 知らなかった。
「リアムは大人だな。可愛い後輩におねだりされたら、俺は弱いんだ」
 いや、それ絶対強者のセリフ。
 心臓爆発するのかな? と思うくらいには爆音が響いた。
 変な汗をかきながら固まっていると、前髪に触れられた。
「どこで落ち合う? 駅か?」
「そう、駅の中のハンバーガー屋……5時……」
 バイトが休みだ。
 よりによって休みだ。
 もう引き返せない。
 このひとに抱かれちゃうのか、俺。
「杏李さん」
 不意に名前で呼んでしまった。
 恥ずかしくていつも、先輩って呼んでいたのに。
 不意をつかれたみたいで、先輩も頬を染めた。
「無理してるだろ」
 頬を染めながらも、先輩は俺の様子を見てた。
 気遣いの人なんだ。
 知ってた。
 だから好きになった。
「勢いで暴走するところ、ひとのこと言えないだろ、リアム」
 見抜かれてた。
 相当ダサいですよ。
 俺は無言で首を縦に振った。
「適当に言ったわけじゃないよ。未来の話だよ」
「そうだな。その時は報告なり連絡なり相談なりしてくれ」
「するよ。だから、就活頑張ってね」
 偽りのない言葉をようやく言えた。
 先輩はあの一点ものの靴で、きっと第一志望の会社に就職する。
 俺も先輩の一点ものになりたい。
 組み敷かれたい。
 でも、それは今じゃなくてもいい。
 今は気持ちだけでじゅうぶん。
 味を調べるのはもっと先でも構わない。
「ありがとう。リアムからもらえるその言葉が、俺は一番嬉しいよ」
 天に召されるかと思った。
 不用意にお礼とか言わないでほしい。
 死因が喜びとか有り得ない。
 
 先輩はたまに突拍子も無い行動に出ることがある。
 その【たま】が、まさか就職っていう人生の一大イベントで発動されるとは。
 就活で履いていた靴の虜になってしまった先輩は、大学の卒業を待たずにあの夏訪れたイタリアの工房に就職してしまった。
 まさかの遠距離恋愛。
 いくらスカイプとかあっても、本物には代えがたい。
 イタリアに行くっていう報告は受けた。
 靴職人の見習いになったっていう連絡も受けた。
 だが、そーゆー大事なことに対しての相談はなかった。
 寂しくなかったと言えば、嘘になる。
 そっちがホウレンソウ怠るなら、もうサプライズしかないなと思った。
 俺はあの日からちょうど1年後のタイミングで先輩を訪ねた。
 唇の刺激も1年振り。
 いる場所は違う。
 先輩は古い民家を格安で借りて住んでいる。
 そこに泊まることになった。
「日本には帰らないの? 俺のこと捨てたの?」
「ここでしばらく修行したら、日本で職人をやるつもりだった」
「俺、全然聞いてない! ずるいよ、勝手に全部決めて、勝手に俺を置き去りにして!」
「置き去りにしたつもりはなかった。寂しい思いをさせたのなら悪かった」
 
 誰もいないのをいいことに、俺はバックハグで先輩を捕まえた。
 人前じゃ絶対出来ない甘え方。
 久しぶりに見た背中。
 忘れたくない。
「もうお前の気持ちとか関係なく、生身じゃないと出来ないこと全部してから帰る。去年と違って、俺はもう酒が飲める。お前のやり方がひどかったら、俺は酒で忘れるからな。そのくらいの覚悟だ」
「酒程度で俺を忘れられるのか?」
「なわけない。でも、そうじゃないと俺が前に進めない」
 必死さは伝わったみたいだ。
 去年の、勢いだけのキスとは違う。
 労りのキス。
 長いようで短い。
 時計の秒針は一周もしなかった。
「リアム、足の大きさを測らせてくれないか」
「靴作ってくれるの?」
「もちろん。今から作れば、お前が就活するタイミングに間に合うだろ」
「その前にシャワー浴びたい。貸してよ」

 身を清めた。
 目の前の彼はもう大学の先輩じゃなくって靴職人だ。
  一人前かどーかは知らんけど。
 汚い足は差し出せない。
「なあ、大きさ測る前に味わってみて。その舌で」
 俺は裸足のまま、ベッドに座った。
 先輩は俺の左の足首を抱え、足の親指に舌を這わせた。
「石鹸の味がする」
「そうでしょうとも」
「リアムの足は小さいな」
「残念ながら、これ以上は大きくなりそうもない」
「そういう人こそオーダーメイドの靴が必要だろう」
 それ以上にお前が必要なんだが。
 わかってるのかな。
 本当は今すぐにでも一緒に帰りたいんだぜ。
 そんな気持ちを知ってか知らずか、先輩は熱心に俺の足の指を順番に舐めていった。
 伏し目の睫毛やら触れる指先やら舌遣いやら、全てに於いて色気が増しておられる。
 これが学生と社会人の差かよ。
 ゾクゾクしてきた。
 舐めきったところで、今度は足の指を音立てて吸ってきた。
 「貝殻みたいな爪だな。舌触りが滑らかで、いい」
 吐息混じりにそんなこと言われたら、怒りの感情が吹っ飛んでしまう。
 策士かよ。
「で、味はどーよ?」
「美味いに決まっている。しっとりとしていて、濃厚で、それでいて爽やかな味がする」
「全然わかんねー……やっぱり職人になろうとか思う人は感性独特なんだな」
 先輩の微笑みを食らう。
 文句を言えなくなる。
 全てを差し出したくなるのに、このひとからなにかを奪える気がしない。
 生き物の格さえ違うと思えてくる。
 足の甲に何度も唇を当てられている。
 カウントしきれなくなった頃、また唇が重なってきた。
「一旦打ち止め。続きは測り終えてからだ」
 足の計測なんて初めてで、ぶっちゃけキスよりもよっぽど緊張した。
 真剣な顔の先輩は安定のかっこよさで、会えなかった時間とか距離とか、もうどうでも良くなってきた。
「その靴作る間は俺のこと考えてくれたりするのかな」
「もちろん。リアムの足の大きさだけじゃなくて味まで知っているのは世界で俺だけだ。絶対いい靴にする」
「諦めた」
「なにを」
「先輩を連れて帰るのを諦めた。もう好きにしなよ。俺は日本で勝手にお前の幸せを願うよ。立派な靴職人になってね」
「そんな、今生の別れみたいな言い方して」
「みたいなじゃなくって、そうだろ。両想いになった途端に離れていって、俺は傷つかなかったと思うか?」
  イヤな言い方をしてしまった。
 別に先輩は俺を蔑ろにしたわけじゃない。
 こんなのはただのわがままだ。
 大人げない。
「リアム、お前は俺のどこがそんなに好きなんだ」
 このタイミングで言わせる?
 言うしかないか。
「全部だよ。全部好きだから遠くに行って寂しかったんだよ。せめて相談してほしかったよ。全部ひとりで決めていたとしてもだよ」
「わかった。じゃあ相談しよう。俺はリアムが大学を卒業する頃には日本に帰る。そうしたら、その時は、一緒に暮らしたい」
  実質プロポーズ。
 そう言われたら、飲み込むしかない。
「お前、片方のガラスの靴持って東奔西走するタイプの王子じゃなくって、完璧なガラスの靴を自分で作るタイプの王子だもんな。だったら俺も足つっこんで一緒に踊ってやる」
  生身じゃないと出来ないこと全部って意気込みは消えた。
 そんなことするより、もう一刻も早く俺の靴を作ってほしくなったから。
 「俺のわがままを受け入れてくれてありがとう」
「ハイハイ、俺の全てを受け取ってくれてありがとう」
 続きのキスの味は唇に覚えこませた。
 当分は味わえない、唯一無二の味。

  あれから三年。
 杏李さんの工房はそれなりに繁盛している。
 営業の俺の手腕だと思う。
 わりとガチで。
 職人としての腕前と商才って別物だなって思わせられる事が色々あって、俺たちはふたつの意味で一緒になった。
 俺が食生活を管理してやらないとついジャンクフードに手がのびがちな杏李さんは、たまに俺を振り切って買いに行くものがある。
 シューストリングのフライドポテトだ。
 なんやかんやで思い出の食べ物でもあるので、コレに関しては週に一回までなら認めている。
「やっぱり日本のファーストフードのフライドポテトが一番美味いよな」
 知らん。
 俺は他の国のフライドポテトを食べたことがない。
 暗に今日あたり食いたかったって言ってるんだろうな。
「揚げたてカリカリと時間経ってフニャフニャ、どっちが好きよ?」
「俺はどっちも好きだよ」
「へえ、俺はフニャフニャはちょっと苦手かな」
「そうなのか? 俺はリアムの唇みたいだな、と思ってた。逢えない時は、ずっと」
 不意に俺の息の根を止めるような発言をするのも相変わらずだ。
 今ふたりきりの晩酌タイムだからいいけど、顧客の前でそういうのマジでやめてほしい。
「色気のある思い出を塩気に代えてたんだな。ひどい」
「はははっ、リアムは愉快な奴だな!」
 なにひとつ面白くない事でも笑いに変えてくれるところは、まあ、そーね、好きかもね。
 学生の頃みたいな、小娘みたいな熱情が今あるかといえばそこは疑問だ。
 だけど、早々と熟年夫婦みたいな安定感は得られている気がする。
 俺たち途中で枝分かれしたけど、頑張って自分の足で同じ場所に辿り着けたんだよな。
「杏李さん、今幸せかい?」
「急にどうした? 幸せでしかないが?」
「そうかい、良かった。ところでだな、俺が営業用に履いてる靴がそろそろ限界かも。あと、地方紙の取材の依頼が来てる」
「結局仕事の話になってしまうな」
「究極の職住近接だからそこは飲み込めよ」
「今進行中の仕事が一段落したら、またイタリアに行かないか。今度はただのバカンスで」
 仕事一辺倒ってわけでもないところも、好きだ。
 手が離せないからって理由でサッカーのワールドカップの決勝を俺に見に行かせようとしたり、大学の友達の結婚式には必ず駆けつけたり、無茶な要求をされたらはっきり断ったり。
 決めたことには一途すぎて、若い俺は置いてけぼりくらって荒れたりもした。
 置いていかれたって嘆くよりも、コイツの残した轍を辿る生き方でもしてみようかって思えてからはうんと身軽になれた。
 就活用にとプレゼントしてくれた靴は、結局指輪でいうところの婚約指輪のようなものになってしまった。
 素材がガラスじゃないガラスの靴のほうがしっくりくるかな。
「それもいいけど、今度は俺のルーツの国に行ってみよう」
「イギリスか。行った事ないな」
「俺、だいぶ英語喋れるようになったからさ、武者修行的な……」
「リアム」
「はい?」
「俺を幸せ者にしてくれてありがとう」
「いやそれ俺のほうこそな! ありがと!」

 酒に弱いわけじゃないが、酒が入ると熟睡してしまう。
 その晩も俺は熟睡してしまった。
 だから、杏李さんが夜中に部屋を抜け出したことに全く気づいていなかった。
 寝起きは最悪だった。
 俺の名刺を見たという病院の人からの電話で目覚めた。
 杏李さんはトラックに轢かれて救急搬送されていた。
 知らない間に降っていた雨の中、慌ててタクシーを呼んだ。
 途中の交差点は明らかに事故現場だった。
 俺は運転手に断りを入れて、車を降りた。
 奇異な目で見られた。
 それもそうだ。
 雨の中、歩道側の信号機の下に散らばったフライドポテトを拾い集めている外国人の男なんて傍目から見たら絶対に気持ち悪い。
 濡れていて泥もついているのに血はついていない。
 袋やハンカチは持っていなかったから、集めたポテトはパーカーのフードに押し込めた。
 再びタクシーに乗った。
 もう急ぐ必要なんかなかったけど、それでも早く顔を見たいと思った。

 杏李さんはまだ温かかった。
 親族に俺のことをどう説明しようか。
 意外に頭は冷静だった。
 とにかく、実家のお母さんに電話をした。
 俺のことは大学時代の後輩で仕事上のパートナーだと知っていたから、話は早かった。
 喪主はきっとこの人になる。
 それでいいと思った。

 ひとりきりの部屋に戻ってからパーカーを脱いだ。
 フードにフライドポテトを詰め込んでいたことをすっかり忘れていたから、頭にふりかかって床に散らばってしまった。
 這いつくばってそれを食った俺の姿を見たら、彼はどう思うだろうか。
 止めたのか、見て見ぬフリをしてくれたか。
 いや、どっちでもないか。
 一緒に食ったな。
 あのひとケチだし意地汚いから。
 せめて洗えよって、笑われた気がした。
 フニャフニャのフライドポテトの味なんかもうわからなかった。
 泥水だか涙だかわからない液体が指の間からこぼれた感触だけは、いやにリアルだった。

 葬儀は近親者のみの簡素なものだったが、俺は特別に参列を許してもらえた。
 唯一の職人を失った工房の営業だから、当然俺も今抱えている仕事が終われば職を失う。
 そのことを知っていてくれたお母さんがまとまったカネを俺に持たせようとしてくれたが断った。
 代わりに命日に必ず実家を訪れるって伝えた。
 息子さんが作ってくれた靴で必ず。
 それが俺の人生の新しい縛りになった。

 それから俺がどう生きたかは、あなたがよく知ってくれている。
 日本にいたらいやでも彼を思い出すから、渡英したのはそういうこと。
 6月に結婚する花嫁は幸せになるっていう俗説を本当にしたいから、まずは俺が愛した唯一の男のことを知ってもらおうと思った。
 そいつに勝てないとか思わないでほしい。
 あなたの魅力で過去を色褪せさせてほしい。
 アレを想うのは、もう、命日だけで構わない。
 俺が通年和装するようになった理由はそんなところ。
 靴は彼のためだけに履くから。
 それを許してくれて、ありがとう。

 ◆end.
 

 

 

 
 

 

 


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