真ん中に挟まれる。
三人で出掛けた帰り道、娘が夫の左腕に右手を添えていた。
私は後ろからついて歩きながら、仲が良いなと微笑ましい気分で、二人の背中を眺めていた。
歩道橋にさしかかった時、徐ろに夫が振り向いて、娘の手をほどいた。そのままこちらに手を伸ばして、私の右腕を掴んだ。
「えっ」
次の瞬間、今度は娘がサッとそばに来て、私の左腕を絡め取った。左右をがっちりと固められて、逃げないように捕獲された有様になった。まるで昔に流行った『捕らえられた宇宙人』みたいだなと思いながら、私は不平を鳴らした。
「これは、連行じゃないですかね」
すると二人は口々に、
「そんなことないよ」
「三人で並んで腕を組んでるだけだよ」
声に笑みを含ませながら、適当なことを言った。
「いや、前から人が来たら、絶対、この人達なんだろうって不審がるよ」
「さっきすれ違った車の中の人がこっち見てた」
「ほら、やっぱりそうでしょう」
笑う娘に、改めて主張する。けれど、
「なにもおかしくないよ」
「仲がいいなぁって思ってるよ」
と、私が怪訝な顔で文句を言うのすら面白がるように笑って、取り合わない。私は肩を竦ませながら呟いた。
「真ん中に挟まれると落ち着かないなぁ……」
左右の腕を掴まれて真ん中に立たされると、妙に居心地が悪かった。唐突に場違いな舞台へ上がらされたみたいで、ソワソワする。
結局そのまま歩き続けて、家路についたのだけれど、思い返すと、普段、人と歩くときは左側に立つことが多かった。右側に立つ時もあるけれど、なんとなくしっくりいかないと感じる。
ただ、真ん中にポンと置かれる落ち着かなさに比べたら、右にいても左にいても、もはやどちらでも良いという気になる。
それくらい、左右を固められると感覚的に自由が利かなくなる。転びそうになる。不安定感が漂う。
けれど、腕を組まれていなくても、多分真ん中に置かれるとソワソワするのだろう。常日頃から、どちらかというと隅っこにいたい性分で、私が人の輪の中で、どの立ち位置にいるのが気楽か、という話なのかもしれない。
娘は私たちによく触れる。
三人で歩き出す直前にも、夫に「デカいな」と言われながらおんぶをして貰っていた。幼い頃などは、私のおしりを触りながら、
「おしりがすきなんじゃないよ、お母さんのおしりが好きなの」
と、にこにこと屈託なく言っていた。そうして、未だ、たまに触るので、これはどういう状態なのだろうと不思議に思い、ある日、夫に尋ねた。
「家におしりをさわるひとがいるんですけど」
「娘はアタシにはそういうことしてこないよ」
その言葉から推し量るに、幼い頃の彼女の主張の通り、あくまでも私に対しての感情表現らしかった。
「大変だね。そのうち摩耗しちゃうね。全国のお母さんも、同じように困ってて、朝の番組で取り上げられるんじゃない?ウチでも困ってるんですって」
「ウィズコロナで子供も大人も家にいるようになったから、皆、おしりをなでてくるのですり減っちゃうって?」
「そうそう」
こういう取るに足らない会話が日常茶飯事で、お互いにボケても突っ込む気がないので、大概うやむやに終わる。
夫と娘は気が合うようで、向かい合わせで踊ったり、雑な肘タッチをしては、笑っている。当初、子供を育てるに当たって私たちは役割分担をしていて、
「私が厳しさ担当で、あなたが優しさ担当ね」
という言葉に応えるように、夫は殆ど怒ることがない。
私は、概ね娘から『お母さんは、楽しんでるときも怒っていても同じ顔をしていて、どっちか判断するのが難しい』と指摘される為、時折、怒っているのが明確に伝わるよう、努めて雷を落とすみたいに叱り飛ばす。そうして、いつまで経っても叱り飛ばすことに慣れないため、話し終えた後、ぐったりする。
娘の評価は、
「英語で言うと、お父さんはkindで、お母さんはkindとstrict」
と、妥当なところに落ち着いている。
私達はお互いに絵の描き方について話したり、タブレットでボーカロイドの動画を再生しながらその背景を聞かせて貰ったりする。どこか友達感覚の親なのかもしれない。
成長するほどに、子供としてではなく彼女一個人として道を選択し、進んでゆくだろう。それまでの準備期間として、私たちは一つ屋根の下で過ごしている。この何気ない一場面は、あまりにも何気なくて、将来、思い返すこともないのかもしれない。淡い時間を積み重ねて、今日も日が昇る。