卵とわたし
錦糸卵を作っている。
まず、卵焼き器にサラダ油を垂らす。次に、卵をボウルに割り入れてかき混ぜる。卵焼き器をコンロの火にかけて、卵液を流し込む。火が通ったらまな板にあげて千切りにする。
私にとって、卵料理は難しい。
まず火加減。火がすぐに通ってしまうので、卵焼きも錦糸卵も、終始弱火にしておかないと見る間に身が固くなってしまう。
それから、卵を割る手順。これも中々難しい。片手で割る人もいるらしいけれど、なんて器用なんだろう。私がやるとまんまと卵を握り潰して、飛び散った卵液と殻でキッチンが大惨事に見舞われそうだ。
卵を割る力加減を、未だに習得できていない。シンクやコンロの端にコンコンと数回打ち付けると、力加減が弱いのか、概ねビビが入らない。では、と、少し力を込めて打ち付けると、ゴシャッと鈍い音を立てる。ヒビが入りすぎて、たまに白身がこんにちはと飛び出しそうになる。
いいんよ、そんなに元気いっぱいに割れなくても。
と、無言でツッコミつつ、ボウルの真上で殻を開く。カシュシュッ……と殻がこすれる乾いた音がして、すぐさまプルプルの塊がボウルの底めがけて滑りおちる。黄身と白身がその身をプルンと震わせてつやめく。そのさまは、今から菜箸でかき混ぜて壊してしまうのがもったいないほど整っている。
私はエイヤと、その調和の取れた美しさに菜箸を差し入れた。このかき混ぜ加減がまた難しい。空気を含ませるように混ぜるとか、切るように混ぜるなど、色々技の種類があるようなのだが、どちらも習得できている気がしない。いつもこれでいいのかと半信半疑で手を止めて、卵焼き器を火にかける。
錦糸卵はフライパンで作るレシピが一般的かもしれない。私は鉄のフライパンに卵を張り付かせて焦げた円盤を作る自信があるので、安全をとって表面がマーブルコートとやらで加工された卵焼き器の手を借りている。
弱火にかけた卵焼き器の一面に、薄く卵液を流し込む。ここまでは卵焼きと手順が同じなので、うっかり巻かないように気をつけつつ、火の通り加減を見る。
表面のジュクジュクが固まり始めたら、加熱しすぎないように火から離す。卵は余熱でも熱が通ってしまうので、扱いがやや繊細になる。
まだ表面が緩いようなら、私はここでフライ返しで裏返す。多分正しい手順ではないのだろう。
おそらくなのだけれど、私が作る錦糸卵は歯ごたえや舌触りが卵焼きに近い。
なぜおそらくなのかというと、試食という確認作業ができないからだ。なので、仕上がりが正解なのかNGなのか常に不明である。生後間もなく卵アレルギーという体質を背負っているゆえ、卵そのものをじっくり食べるということがあまりないし、卵白で髪をパックしてサラサラにする裏技も経験がない。
ただ、作ることは一応できる。食べられなくても卵焼きも目玉焼きも作る。
例えば卵焼きの味付けの好みを人に尋ねると、「胡椒と塩」「白だしと醤油」「鶏ガラスープの素」などと返ってくるので、今まで作ってきた料理を思い返しながら、勘で調味料を卵液に振り入れる。
目玉焼きは料理の本やネットで作り方を見る。硬めか半熟かで火を通す時間を変える。
今のところ、月見卵の黄身をに美しくかつ完璧に火を通す方法を知らないので、今度ネットで調べてみようと画策している。
錦糸卵の作り方はシンプルだ。卵を溶いて焼けばいい。そして、卵アレルギーの人が卵に対して注意すべきこともシンプルだ。触れない、食べない。大きくはこの二点。
アレルギー反応を誘発する物質は、スギ花粉のように空気中にも浮遊する。なので、卵に直接触れたり食べたりしなくてもアレルギー反応は多少起こるけれど、自覚症状が弱い。その点、触ればきっちり痒くなるし、食べれば微妙に呼吸が苦しくなる。
卵料理は乍ら私にとって一手目から注意がいる。
まず卵を割る親指に卵が触れる。次に、千切りにする時に添える指先が卵に触れる。たしかに指先がジンジンする。
けれどもかきむしるほどではないし、そもそも、年齢分こうして生きてきたので、こんなもんだなぁ、くらいに適当に捉えている。近くにいる人達に「危ないよ、代わりに作るよ」と気遣われる時もあるけれど、
「いやまぁ別に、気をつければ大丈夫だから」
と答えて、卵をコンロの角にコンコンと打ち付ける。殻のヒビ割れに親指の先を引っ掛け、
パカッ。
殻を割ると、中身がボウルにツルンと飛び込む。私は殻を捨て、すぐさまシンクで石鹸を泡立てて卵を洗い落とす。割った時点から親指の先が微かにむず痒いけれど、蚊に刺されたら痒くなるのと同じく、昔から当たり前に、標準装備として持っている。私にとっての「通常営業」だ。
アトピー性疾患といわれるこのアレルギー反応は、免役の「過剰反応」なのだそうだ。体の免疫機能は、日夜、「異物発見!」と意気込み、原因物質の排除のために手を尽くしている。皮膚だけでなく、気管支や鼻など、様々な場所で異物とエンカウントする。その度に免疫に関わる細胞が「俺はやるぜ!」と勇ましく前のめりになって戦い、痒みや呼吸困難や鼻水鼻づまりを引き起こす。防御反応のせいで自分自身がしんどくなる、それがアトピー性疾患のもつ過剰な免疫の大まかな姿なのだそうだ。
私は卵料理そのものは食べないけれど、卵の美味しさは知っている。小学二年生の頃、まだアレルギー体質の子供が40人学級に2人いれば多い方という時代だった。
給食に卵料理がでたので、担任の先生に、
「卵が食べられません」
と申し出たところ、
「好き嫌いを言わずに食べようね」
と受け入れてもらえなかった。当時、それ以上の言葉を持っていなかった私は、アレルギーについてなんと伝えればいいのかわからず、仕方なく食べることにした。
口に含む。口の中も喉の奥も痒い。息も苦しくなって、ヒュウと鳴る。胸か胃の辺りがグニャグニャして気持ち悪い。涙がポロポロこぼれてきて、それでも同時に、
「卵って、美味しいなんだなぁ」
と、味を感じ取っている自分もいたのもよく覚えている。
卵は美味しい。食べられないけど知っている。
その経験から、私は卵に対して割と前向きで、作れるものなら料理の幅は広げたいとも思う。ただ、味見ができないので、今のところは簡単なものにとどまっている。
季節は夏になり、体温を超える最高気温を叩き出す。こうなってくると、お昼に素麺や冷やしうどんを食べたくなる。
冷蔵庫から、きゅうりとトマトを取り出して切る。それから卵を取り出して、ボウルに割り入れる。そんな風にこの夏も、涼を取るのと平行に、錦糸卵を作っている。