2020年7月16日への手紙。

下書きを整理していたら、一年前の日付のテキストを見つけました。

読み返すと、あの時、少し先に起こり得る状況をなんとなく読んで、その場に応じて焦りを落ち着かせて対処しようと試みていた自分の気持ちがぼんやりと思い出されます。

文章的には意味の不明瞭な部分のある日記です。それでもいつか、今よりも一歩先にいる私が読み返したとき、何か感ずるものがあったり、ひとつのきっかけになりうるかもしれません。或いは、全く何ひとつ響かないやもですが、ノートの隅に付箋を貼るような気持ちで、リライトせずに残しておきます。

*  *  *


五月の末頃のことです。ふと、気持ちが揺れ動かないように準備しないとな、と思い立ちました。

言うなれば、誰かがそろそろ躓いてこけるな、という予感。予測に近いです。

そうして、心構えを作って有事に備えたのですが、二ヶ月半は、我慢するにはちょっと長かったかもしれません。

いま、泣きたい気もするけれど、泣き方がわからないのです。泣けるうちに、少しずつ泣いておけば良かったかもです。

気持ちの振り子が揺れる。以前、そのように書いたかと思います。
片方は夢、もう一方はうつつです。天秤のようなものでもあります。双方どちらにも傾かずどちらともつかず、ちょうど半分の位置にいます。

現実の中を歩きながら、心の中を歩いている、空を、雲を。風を、人を。光を、夜を。眺めながら、同時に、自分の過去に思いを寄せる。そういう感覚です。

すべてを夢に傾けてしまうと、私は痛いのです。かといって、すべてをうつつに傾けると、言葉の手触りがなくなります。

これを、私は『感受性』と呼ぶのですが、本を読んで感情移入をしたり、文章が描く景色を想像したり、人の想いや心の機微を読み取るときにも要る力です。

感受性があまり際立ち過ぎると、目に見えるものや聞くもののすべてが気持ちに過剰に触れてしまって、花びらのように優しいものすら胸を痛くさせて、涙がこぼれるときもあります。

昔に比べると、人が無闇に、無残に殺される話。または欺き騙し合う。あとは殺し合う。欲のために陥れる。そういうものに弱いというか、映像作品であっても『作品』として前のめりで見ることが少し難しくなりました。

目に映る様々なものが琴線に触れすぎてしまうようです。

陽光を受けて輝く木立や、通りすがりの年老いた人の背の曲がった後ろ姿に垣間見える年輪や、青い空、暮れていく時間。終わっていく今日が一度きりしかないことが苦しくて、そして美しくて、胸が痛くなるのです。

夏の夜空に打ち上がる花火にしてもまた、開く美しさに心奪われるよりも、夜空へ放たれる間際に頭を過ぎるのは、開く美しさへの感動よりも、消えてしまうことへの儚さで心が満ちていきます。

目に映るものは、いずれすべて消えてなくなることの寂しさ。愛おしいものは寂しさを伴って尚のこと愛おしい。

感受性が夢へと傾くほど、そういう痛みにとらわれるのです。

けれど。いまは。それがないのです。

すべて。何事も。気持ちの表面を軽くなでるくらいで、痛みもなく通り過ぎていくのです。

もうこのままでいいんじゃないかと思うときもあります。痛みを伴うから探せる言葉や記憶もあるけれど、痛まないから突き詰めて考えられる感情もあります。

ただ、感受性をしまい込んだままだと、見つけられなくなる扉や出来なくなる話もあるので、ずっとこのままだとちょっと困るのです。

日々やっていることは変わりないのです。
ご飯を食べて。
挨拶を交わして。
手を貸せそうなときは添えて。
当人が自分で出来ることは、大変そうでも、冷たく見えても、近くで見ていて。

多分、暫く先までそうでしょう。

それは少し寂しいのかな、と、ふと思う。

そのすぐ後に、そうでもないかな、とも思うのです。

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