いつか歩いた道、この先も歩く道。
夜。鈴虫が足元でリンと鳴く。電車の時間まであと15分程ある。駅まで遠回りをしてみようと、いつも通る細い歩道を迂回した。木立の向こうのだだっ広い駐車場の街灯が、無言で光る。
車の顔が一列にこちらを向いていた。その列を右手に見ながら歩く。車の後方側に茂る山茶花は、冬になるとピンクがかった紅色をした鮮やかな花を咲かせる。豊かに咲き誇る花弁は冷たい風が吹く白く曇った空の下にあっても優しげで、にこやかに微笑むようであった。
「今年もきれいに咲いたね」
私の隣を歩く母に声を掛けると、母は目を細めてニコニコしながら、
「きれいね」
と言ったものだった。
この道を母と歩いた。ほんの三年ほど前のことだ。今はもう随分と、歩ける距離が短くなって、この駐車場までは来なくなった。
病状が不安定になる度に入退院を繰り返して、その度に筋力と身体機能が少しずつ削られていく。落ち込んだ身体機能を入院前の状態に戻すだけでも相当な体力と気力を注ぎ込んだ。その過程で、筋肉は徐々にこわばり、体の可動域が狭くなっていく。
母は時々言う。夢の中ではいつも歩いて、行きたいところに行ってるのだと。
行きたいところ全てとは言わないけれど、車椅子ではなくその足で行ける場所が、一つでも増えたならと思う。
「10月になったら歩く練習しなくちゃね」
暑さに弱い母が先日、小さな決意をにじませて言った。
鈴虫が鳴く夜。今は夜だけがまだ秋の気配で、昼間は酷暑が続く。けれど日中蝉の声を殆ど聞かなくなったように、空に浮かぶ雲の白い輪郭線が少しぼやけてきたように、季節はグラデーションを描きながら、静かに入れ替わろうとしつつある。
いつか歩いた駐車場へと続く道。一歩を踏みしめる速度は今くらいゆっくりでいいから、またいつか、一緒に冷たい風に吹かれて「寒いねぇ」なんて苦笑いして、山茶花を見られるといい。