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その胸の内は分からないが

先週、娘にうちの実家の話を少しした。

その夜、娘がお風呂に入る直前に脱衣所のそばでふと立ち止まって、私に声を掛けた。

「おじいちゃん、ひとりでさみしくないんかな」

と。

「前々からちょっと気になってたんだけど、おばあちゃんはおじちゃんと暮らしてるでしょ」

「ふん」

「他のおじちゃんらも家に来るからさ、おばあちゃんは自分の子どもに囲まれて暮らしてるよね」

「ふん」

「でも、おじいちゃんはひとりでしょ」

「ふん」

「おじいちゃんさみしくないんかな」

おじいちゃんは皆で暮らしていた家に、いまは一人で暮らしている。私はその経緯を彼の孫である娘になんと説明するのが一番適切なんだろうかと考えつつ答えた。

「でも、それはおじいちゃんが選んだことだからなぁ。おじいちゃんが淋しいかどうか、本当の気持ちはよく分からん」

適切というのは、事実のみがきちんと伝わる言い方という意味である。

私はなるべく実家について感情を交えずに話したい。感情がこもると状況が正確に伝わらないからだ。いままで娘には意図的に実家の話をしないようにしてきた。あまり円満な家庭ではなかったし、若干ややこしいというか、包み隠さず話すには出来事が多くて話が長くなりすぎるのだ。
私はそもそも、おじいちゃんと娘、という現在の関係性の間に、私たち家族と父、という『過去』が割り込んでしまわないようにしたくて、あまり話さないように気を付けてきた。

娘から見たおじいちゃん像は、現状、「いいひと」の範疇にある。少なくとも「自分に損害を与えてこない人だと感じている」のだそうだ。それならそれがいいと私は思う。娘がおじいちゃんと関わって、短いながらも会話をしてやりとりをして感じ取る範囲で、おじいちゃんへ向ける気持ちを決めてほしい。
私たちの事とは切り分けてほしいし、左右されてほしくないし、なるべく影響されないでほしいのだ。

その日はどこまで伝えたらいいのか私も即座に判断がつかなくて、一旦話を切り上げた。
ただ、いつか実家の話を娘にするつもりではいたので、彼女から疑問を呈してくれたいまが、話す時期として適当なのだろうと感じ、数日置いてから改めて切り出すことにした。

あまり身構えずになるべく気楽に話したかったから、夕飯が終わって娘がリラックスしてるタイミングを選んだ。娘がお風呂に入るまで部屋でくつろごうとスマホを手にする前に、尋ねた。

「この前、おじいちゃんが一人で淋しくないのかなって言ってた話、もう少ししてもいい?」

どこから話そうかと頭を巡らせた。まずは順番的に、おじいちゃんが一人で暮らしている経緯からだなと思った。

「おばあちゃんな、ある日、ものすごーく体調を悪くしてな、ちょっと難しい病気になったのね。そう、あれはセミがわんわんと鳴く、暑い夏の日のことでした」

私が言い直すと、

「そこ急に語り口調入ってきたな」

娘が笑う。

「おばあちゃん、そのあと何ヶ月も入院して、その間に体の機能が落ちてしまって、要介護の状態になったのね」

私は頭の中に出来事を順番に並べる。ドミノ倒しのドミノを並べるような気持ちで、順番を間違えないように慎重に。娘は黙って私の話を聞いていた。

「体がうまく動かせなくなったから、実家の部屋の物を全部片付けて、おばあちゃんが躓かないように色々整えて準備しなきゃならなくてさ。でも、おじいちゃんは、おばあちゃんの入院中に一回もお見舞いに来なかったのね。おじちゃんに全部任せたって言って。で、おじちゃんが色んな状況を見かねて、おばあちゃんを連れて家を出ることに決めたのね。だからおじいちゃんは、いま一人なんだよ」

「へぇ、おじちゃんに全部任せた、なんだ……」

咀嚼するように、或いはため息をつくように娘が呟いた。

「そう。だからな、おじいちゃんが一人なのは、おじいちゃんが選んだことなんだわ。でも、おじいちゃんはおじちゃんを頼りにしてるから、たまに家の電球が切れたら取り替えにきてって頼んだりするよ。その話をほかのおじちゃんにしたら、『行ってあげるんだ、優しいからなぁ』って言ってたな」

「優しいからなぁ、かぁ……」

娘は、私が伝えた話を自分の中にじっくりと落とし込んでいるような、考え深い表情をしていた。

「おじいちゃんとはな、私が十一歳くらいの時から一緒に暮らしてないのね。単身赴任でさ。年に二三回くらい帰ってきたかな。で、戻ってきたのは、定年退職したときなんだわ。そのときにはもう上のおじちゃん以外の兄弟はみんな家を出ててな。私も結婚してたし。だからこっちに戻ってきてからは、おじいちゃんとおばあちゃんとおじちゃんの三人で暮らしてたんだ。そうだねぇ、どのくらいだろう、多分十年以上、三人で暮らしてきてるな」

はぁとかへぇと相槌を打っていた娘が、何かに思い至った風に言った。

「それでいうと、おじちゃんは一番おじいちゃんと長く暮らしてるし、頼られてるし、おばあちゃんとおじいちゃんのことも一番長く見てきてるから、おじちゃんはおじちゃんで、思ってることがあるよね。お母さんが感じてるのとはまた違って」

「そうだなぁ。そこには別の思いがあるな」

一番長く父母と一緒に暮らしてきて状況を観察してきた上で、頼られている、任せられている。そういう人の見てきた景色を、娘は読み取ろうとしていた。込み入った話を丁寧に拾おうとする。背も伸びたけれど随分心も成長したのだなと噛みしめつつ、私は続けた。

「だからこの話の全体を読み解こうと思ったら、登場人物全員分の物語を語る必要があるんだよ。おじいちゃんにはおじいちゃんの思いがあるし、おばあちゃんには別で物語がある。私たちはずっとおばあちゃんに、そんなに一緒に暮らすのが大変なら離婚したらいいじゃんって言ってきてたんだけどな」

すると、娘がびっくりした顔をした。

「急にハードな話はいってくるな。離婚したらってみんなで言ってたの」

「そう」

どの例え話が母が大変だったエピソードとしてよく伝わるだろうと私はちょっと考えて、

「おじいちゃんは、私が乳児の頃に半年くらい帰ってこなかったらしくてな。きっとちっちゃい子供が家にいっぱい居て、おじいちゃんは居場所がなかったんだろうな」

「え、その間、おばあちゃんは全部ひとりでやってたの。大変」

「あ、違うんだ。おばあちゃんはずっとひとりでやってたんだ」

娘が「えっ」と声を上げる。

「家事全部やって子育ても全部やってたの。おじいちゃんは子どもを抱っこしたことがないんだってさ。子ども連れて出かける時はどうしてたんだろうな。子どもなんてすぐどっか走って行ってしまうのにな。私たち、おじいちゃんと遊んだこともない」

「へぇ……」

「あ、でも、皆で出かけたことがあるな、1回。おじいちゃんが急におばあちゃんにおにぎり作ってって言い出して、大急ぎで人数分作って出かけた」

「それは。急におにぎり握ってって言われたおばあちゃんからするとすごく大変……」

「そう。すごく大変だったと思う。出かけたのは、あとは小さい頃、1回皆でレストランに行った記憶があるなぁ。あぁ、あとは法事の時はおじいちゃんも居たな。葬儀とか」

「法事を団欒のお出かけにカウントするのはちょっと……」

「そこも込みにしないと少ないしな」

「なんか、新しい世界の話を聞いたわ……」

娘が微妙に呆然としながら言った。

そばで聞いていた夫が、

「ここまでが導入部分。入門編だね」

にやりと笑った。すると娘が、

「骨組みの、鉄骨部分は組み上がったんだね」

と言った。私はそろそろ話を締めくくろうと続けた。

「私も、娘とお父さんが遊んでるところを見てると、新しい世界を見せてもらってるなって思うよ。ああ、こういう風に子供と父親って遊ぶんだなぁってね」

「あぁ、でも、これでなんとなくわかった」

「?」

「前におじいちゃんの家に一緒に行った時に、これってなんなんだろうって思ってたんだ。おじちゃんとおばあちゃんと話す時のお母さんと、おじいちゃんと話す時のおかあさんは、様子がなんか違うなって」

やはり娘は娘で少しずつ、違和感を抱いていたのだ。

「あぁ、やっぱり気づいてた?どこかよそよそしいって」

「なんか違うなとは」

「笑顔で話すのが礼儀だと思って話してるよ」

「礼儀……、そうなんだぁ……」

私と娘は育った環境が随分違うので、果たしてどこまで伝わっただろうかと思うのだけれど、最近の娘がぼんやりと感じていたという、私への違和感ーーーお母さんがおじいちゃんに対して笑顔で対応している上でのよそよそしさの、その理由を大まかに理解したのなら、話した意義があったというものだ。

「孫はな、可愛いんだよ。娘はおじいちゃんが怖くないだろう。おじいちゃんは娘を目の前にすると『なんか可愛いのがいるなぁ』っていう気持ちになるんだよ」

「確かに怖さはない。話しかけにくい感じはあるけど、それだけ」

「おかあさんは子どもの頃おじいちゃんが怖かったね」

「へぇ。全然怖くはないよ」

娘が驚いたように言う。

「たとえば、そうだな、おじいちゃんがいる時は部屋で横になってゴロゴロとか絶対できなかった」

「えぇ、そんなに緊張感、あるんだ」

「そう。緊張感。ほら、あれ、この前、娘がテレビ見ながらさ、『夫の実家で過ごすと気を使うってテレビで言ってたけどおかあさんはどう?』って訊いただろ。私は実家にいてもずっと緊張して、気を使ってきたからさ。むしろ、じいじとばあばは仲良しだし、ふたりとニャンのいる家のほうが、よっぽどホッとする」

ただいまとドアを開いても、まだどこへも帰ってきた気がしない家だった。芯から落ち着く場所がない時間をずっと過ごしていた。でも、それは私の物語であって、娘には娘の視点でおじいちゃんとの関わり方を判断して選んで欲しい。

話の終わりに娘が言った。

「なんか色々思うけど、私が気をもむところじゃないしな」

「左右されることはないよ」

と、夫も付け加えた。

この先も折につけ、少しずつ、私の実家の話をしていくつもりだ。できればいつでも『私が気をもむところじゃない』と言える娘のままでいられるように、私は感情のフィルターを通さずに、出来事だけをきれいに並べて話していきたい。

この先も、私は私の心と向き合ったり、時にはしんどくなってよく見すぎないように片目を塞いだりする。けれど娘に伝える時は、そのままの事実だけでありたい。

昨日は娘がお風呂に入る前に、台所で洗い物をしている私のところへ、

「おかーさーん」

と呼ぶ声とともにやってきて、

「両手がふさがってるね」

と言いつつ、投げキッスをしていった。

幼い頃、『お母さんに愛を分け与えることを誓います』と宣言する子供だった。忠実にそれを守っているのかどうか、胸の内は分からない。けれど、愛情を渡してくれているのは確かなので、いつも通りありがたく頂戴して、この心に蓄えておく。


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もちだみわ
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