雑記。散歩に出掛けた日。
なんとなく手持ち無沙汰なよく晴れた日に、ぶらりと駅へ向かった。
改札をくぐり、階段を抜けてホームで電車を待つ。その間も、特に何かを思うわけでもなく、向かいのホームを見るともなしに眺めていた。
右手側から滑り込んできた電車がゆるやかに減速して停まり、ドアが音を立てて開く。前の人に続いて乗り込んで、二人掛けのシートの通路側に座った。隣席の男性は耳にイヤホンを掛けていた。多分音楽を聴いているのだろう。私は膝の上にスマートフォンを置いて、車窓を流れる街並みを眺めたり、目を閉じたりして、シートに背中を預けていた。
そのうちに、窓の向こうに線路と平行に走るまっすぐな水平線が現れた。
改札を抜け、降り立った砂浜で、人影のない明るい波打ち際を、ただ歩いた。取り立てて、用事も目的もない。誰かに会うわけでもなく、静かな場所で考え事をしたいわけでもなかった。強いていうなら電車に揺られて、少し遠くへ行きたい、そういう、ただの思い付きの散歩だった。
寄せては返す波の音に耳を傾けながら、陽の光が踊るように砕けて輝く水面を眺めた。きらりきらりと光の粒が、笑うように揺らめいていた。
冬の冴えた風が、背中側から脇をすり抜けては、視線のさらに先へと飛ぶように駆けていく。振り返ると途端に向かい風になって、全身にぶつかってきた。
立ち止まって遠くを見遣ると、砂の上につけた足跡が、まだ波に打ち消されずに、突堤の辺りまで、歩いた分だけ続いていた。水平線のすぐ上に広がる空の青さを、風に押し返されながらしばし眺めた。
こうして風に触れながら、波の音を聞くのが好きだな。と、しみじみ思う。
砂浜の終わりまで歩いて、歩道橋を渡った。海風に当たり続けていたので、なんとなくあたたかいものが欲しくなって、自動販売機でもあればと辺りを見回した。ふと、道の脇の喫茶店が目に留まる。取っ手を掴み、木製のドアを開けると、店内は奥へ長い造りになっていた。先客と入れ違いに中へ入る。店のマスターに勧められるまま、カウンター席へ着いた。
どうぞ、と手渡されたメニューから、アールグレイを選んだ。紅茶の葉っぱが開くまでの間、店の壁面の棚に並べられた瓶を眺めつつ、カウンターを挟んで、この銘柄は香り高いとか、喉越しが良いなどと教えて貰いながら、しばし談笑を交わした。
そっと出されたティーカップからは、淡い色をした甘い果実のような香りと、湯気が漂う。会話の合間に、暖かくて優しい香りだな、と思いながら、口を付けた。
「世の中がもう少し落ち着いたら、折を見ておすすめのものを頂きに来ます」と、約束に満たない言葉を渡して、店を後にした。風がひゅうと吹くけれど、まだ暖かかった。いい時間だった。多分、忘れられた頃にまた来る。その時は、初めましての顔をして、もう一度、楽しく話せるといい。
ただなんとなく行って、散歩をして、来た道をぶらりと引き返す。そのためだけに費やされる時間を、贅沢と呼ぶべきか、必要経費と呼ぶべきか。
帰りの電車に揺られながら、ふと目を閉じると、遠い思い出が頭の片隅を通り過ぎた。風の吹く夕暮れ、脱いだ靴を片手に波打ち際を歩きながら、手を振った夏の終わり。暗く日の落ちた海辺で、夜の色をしたコートを着込んで佇み、空の中を進む飛行機の赤い明かりを眺めた冬の最中。
今よりは遠くにあって、けれど、まだ辿ることのできる時間。今日書き留めたささやかな出来事もまた、一枚の写真のように残される。