”ほら見て、おしりが落ちてるよ“
真昼の炎天下、スーパーを出てすぐの歩道で、アオムシと遭遇した。
この道は買い物客や自転車が普段から行き交う。よく踏み潰されずに無事でいたものだ。驚くほど堂々と道の真ん中にいた。ぷっくりとふくよかな体は優雅ですらある。色は鮮やかな緑。中指くらいの大き
さで、立派に成長して、もうすぐ蛹になりそうだ。
「なんでこんなところに。踏まれてしまうよ」
私はアオムシに話しかけるようにそばにしゃがむと、辺りに視線を巡らせた。アオムシを歩道からすくい取るのに丁度いいサイズの葉っぱが欲しい。けれど、落葉の時期ではないので小枝すら見当たらない。
その時、一緒にいた夫が、アオムシがギリギリ乗るくらいの大きさの木の葉を差し出した。アオムシは身の詰まった柔らかな体をくねらせて、葉っぱの小舟に乗ることを拒んだ。気持ちよく歩いていたのに行く手を人間の手に阻まれて、慄いているのだろう。
それでもなんとかコロリと転がして葉っぱに乗せる。地面に落とさないように気をつけながら立ち上がり、歩道の脇に植わっている木の根元に避難させた。
青信号になった横断歩道を渡りながら、夫がポツリと言った。
「アオムシはどこに行きたかったんだろうね」
「どこ。そうですねぇ」
「葉っぱを食べるのよね。もっと緑のあるところがよかったかな。植え込みとか」
スーパーのそばには植え込みが無かった。
「信号の向こうにはあるけど、横断歩道の途中で落としちゃうと怖いしね」
「あの木は夕方になると鳥がたくさん寄ってくるから、アオムシはもしかするとスーパーの壁の方に行きたかったかもしれない。それを人間のエゴで動かして、結局、そのせいで鳥に食べられちゃうかもしれないよね」
「エゴか。まぁそうだよね」
「正解がわからないな。あの場所が最善ではない気がする。どこへ連れて行けばよかったかな」
歩き出してからしばらくの間、夫はアオムシを置くのに適切な場所がどこだったのかを考えていた。
数日経ったある日。アオムシと遭遇したスーパーの前を、再び夫と通った。
夫はふと歩道の脇に視線を落とした。後ろ髪を引かれる素振りを見せる。そうして、少し先へ進んでから、
「ねえ、ちょっと」
と、わざわざ引き返して私を呼び止めた。
もしかすると過日のアオムシが蛹になって木の根元に止まっているのかと思い、夫の視線の先を覗き込んだ。
そこには小さな紙が落ちていた。
4・5センチの横長の白い紙の中央に、数字の3が大きくポンと書かれていた。
……暗号かな。
一瞬そんなことが頭をよぎる。買い物のメモという感じではなかった。メモをなくしてスーパーで買うものがわからなくて今日の献立に困っている人がいないのならよかった。などとさらにぼんやりと思う。夫はそのメモを指して、
「ほら見て、おしりが落ちてるよ」
と言った。
え? 今おしりって言った?
脳が一瞬遅れて理解する。
「……あ、ああ。おしり……」
言われてみると確かにそれはおしりでもあった。横倒しになった数字の3はトイレのウォシュレットのボタンに書かれているおしりマークによく似ている。
「わざわざそれを言うために引き返したんですか」
「そう」
「おしりだわー、面白い、って?」
「そう」
数字の3だとしてもそこに落ちている理由が謎だし、おしりだとしたら尚のこと迷宮入りである。おしりを描いた紙をスーパーの前で落とすシチュエーションとその経緯を答えよと筆記試験で出題されたら、なんと回答するべきか。難易度が高い。
「すぐに数字の3だなぁって思ったんだけど」
と、夫は少し笑いながら続けた。
「そうやってスルーしちゃうのって、よくないって思ったのよ。そういうの、つまらないなって」
日常を面白がること。それは夫のモットーのようなものだ。折につけ、自分の機嫌は自分で取らなきゃと言って、少し遠くを眺める。
人生をつまらなくするのも楽しくするのも自分の心持ち次第で、つまらなくなるのは簡単だから、自分から何かを見つけに行かなきゃ。
そんな風に言うときもある。
偶然見つけた数字の3から掬い取れる何か。その些細な何かを見つけられる姿勢が、日々にひと雫の潤いを与えてくれたり、ふっと笑って力みが抜けて、余白を生んだりする。
憂いや不安は、容易に心の中に黒く滲んで広がる。些細なことから、気持ちが乾いてひび割れたりする。そこに一滴、落とせるか否か。
おしりといえば、娘は幼い頃から「お母さんの好きなところはおしりと太もも」と力強く言い切っていた。先日も、部屋で宿題を終えた娘が私の脇を通りすぎるときに、
「ノルマ」
と言って、私のおしりを軽く触っていった。
「ノルマなんだ」
「うん」
「お父さんのおしりは触らないよね」
「セクハラだからね」
「お母さんのはいいんだ」
「だって『お母さんのおしり』だから」
その表現は、テンション的にはゲームで言うところのアイテム名『お母さんのおしり』だった。プライベートゾーンとしてのおしりではない。娘からすると、『お母さんの背中側の下半身についている柔らかな部分』という認識だ。また、根をつめて部活や勉強をして学校から帰ってきたあと、腰や足にしがみつくこともある。
「触ると安心する」
のだそうだ。
「それはさ、クッションとか毛布に近いよね」
「うん」
夫もだいたい似た見解で、私がシンクで食器を洗っていると、
「こんなところに、おしりが落ちてるよ。支えておこうね」
と手を添える。
「私があなたのおしりを触るのは、どうですかね」
「それはセクハラだから」
「私のはいいんですかね」
「『お母さんのおしり』だもの」
やはり同じことを言う。それが夫と娘の共通認識なのだ。そう言う時、二人とも少し楽しそうにしている。多分、この人たちは自分の楽しませ方を知っているのだ。
だるい日もあればずっと寝ていたい日もあるし、テンションの上がらない日もある。
「早く宇宙人が来て、地球をなんとかしてくれないかな」
そんな風に夫は、時々ポツリとつぶやく。先日も、
「時間止め宇宙人がやってきて、人間の時間を10年くらい止めてくれたら、地球温暖化も少し進行が食い止められそうじゃない」
と、厳しい日差しに肌を焼かれながら、体温を超える気温を憂えて言った。人間の営み全般を一時的に止め、周りの生物の活動はそのままにすることで地球の回復を図る構想だ。
「都会に人間を集めて、その地域限定で時間を止める」
「僻地に住んでて集合できなかった人は?」
「ほっとかれる。宇宙人は親切心でやってるわけじゃないから」
地球の不具合を改善しにやってくる宇宙人は、夫にとって神様ほど寛容な存在ではない。全員を隈なく救うわけでもなく、宇宙人なりの立場や都合を持っている。
ニュースで会計不正問題が報道されれば、「自分の星の会計技術で世界を平和にするのが好きな宇宙人がやってきて、地球人を統制してくれないかな」と言うし、世界各国の古からの争いの火種がくすぶる様が報道されれば、「宇宙人が穏やかに争いを止めに来て、制圧してくれないかな」と言う。
正義のヒーローが救いに来て颯爽と立ち去るノリではない。宇宙人は基本的に正義を掲げているのではなく、自らの主義を行使し、親切心ではなく自己都合で他の惑星を侵略する。結果、地球の不都合が改善され、平和になる。
ウインウインの関係というか、結果を見れば友好的だけれど微妙に油断ならない。妄想なのに手放しで喜べる状況を作らないのは、夫の性分なのだろう。
テンションの上がらない日も、ただ凹むだけではなく、宇宙人に任せることで気持ちを少し逃がす。それもまた、乾いた地面に落とすひと雫だ。
「ほら見て、おしりが落ちてるよ」
そこに落ちているユーモアもまた、なんてことのない日常に、花を咲かせるものだと思う。