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鍵
家のドアの前でカバンを開けたら、鍵がなかった。
私にとって「鍵の管理」は苦手な部類に入る。割とすぐ所在地を見失うので、必ずカバンの内ポケットに入れるようルール付けしている。スマートフォンならばどこかに紛れてもコールして振動や音をたどって探せもするが、鍵は無生物なので呼んでも返事をしないからだ。呼べばハーイと返事する鍵があればいいのにと思う。
臨機応変に動くのは苦手だけれど、目に見えるマニュアルには添える、という性分を活用して、概ね紛失を免れている。カバンのポケットにない場合は、第二候補はブルーないしグレーのGパンの右ポケットだ。ズボンのポケットに鍵を入れる時は右と決めている。
今回はカバンの背面のポケットに入っていた。きちんとチャックも閉じてあった。普段そんなところへ鍵を入れることも、そのチャックを閉じることもない。思わず鍵をじっと見つめる。けれど状況を思い浮かべようにも頭の中のメモリーは目が痛いくらいの白紙である。鍵を背面のポケットに入れてきっちりチャックを閉じた時の私の気持ちがわからない。多分何も考えずに突っ込んだのだろう。
鍵にしろスマートフォンにしろ、無意識に何処かに置くと大体見失う。なので、普段から四箇所ほど置き場を決めて、ここに、と心の中で小さく指さし確認をしてから置くようにしている。ソファーのひじ掛け、低い洋服ダンスの天面、机の上、こたつの脇の雑誌置き場の上。このあたりを探して見つからなければ手詰まりだ。
私は物を失くして探している最中も、淡々と「水道の水は指先で切っても切っても流れ続けますね」みたいな顔をしているが、内心動揺している。あと、普段から気を付ける、という意識の上にやっと「普通」にできることが成立している、という事実に改めて傷つきもする。どれも些細でちいさな傷だ。「当たり前になくすから、これは不測の事態ではなく当たり前」と気持ちの上をなるべくカーリングのストーンのごとくスルスルと滑らせるようにして、素知らぬふりで処理してやり過ごしている。
第一に、物は探せば大体見つかる。見つからなければどこかに相談するなり、一旦その場から離れて、次の手を考えればいい。そこにあるのはただの事実で、それ以上のものはない。とにかく無意識に置かない、元の場所に戻す、というのを心掛ける。
鍵で困ることは他にもある。出掛ける時に確実にロックしたか時々分からなくなるのだ。確証がなくて引き返してドアノブを回し、固く閉じられている手応えにホッとする。そして歩き出してまた疑心暗鬼に駆られる、というのを繰り返して、家のドアから数メートルの範囲を三往復することもあった。
いつ頃からか、いちいちそれをやっていてはきりがない、とうんざりしつつ思った。本当にきりがないのだ。なので、「引き返してからの確認は基本しないし、するとしても一度だけ」というルールを自分の中に作った。
歩き出してから、鍵を掛けたか不安になって立ち止まりそうになるときはよくある。そういうときは、五感を頼りにする。ドアの前で鍵を持った時の、冷たくてジャラジャラとした感触。自分の手の中に鍵があって目視している映像。ガチャンと閉まる音。カバンから鍵を出すときに肩にかけ直した重み。
断片的な情報をつなぎ合わせて、「これらの音や感覚が頭の中に残っているので、鍵を掛ける動作をしたはず」と自分の記憶を補完して、後ろ髪を引かれつつも引き返さずに歩き続ける。
この現象はなんなんだろうといつも謎に思う。一部の認知機能がうまく働いていないのだろうか。
などと思いつつ、私は鍵を回してドアを開けた。
ガチャリ。
玄関を見ると、床にハンドタオルが落ちている。
出掛ける前にも鍵を探して、カバンの中身を取り出していたのを思い出す。その時にしまい忘れたのだ。鍵を見つけたことに安堵して別のものを置き忘れる。そう。油断というやつだ。そういうこともよくある。指さし確認は大事だ。
私はハンドタオルを拾って、家の鍵をカバンのポケットに片付けた。今後とも鍵との戦いに乞うご期待である。
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