おろしたミュールで出かけたら
靴箱の奥でオフホワイトのミュールが出番を待っていた。ヒールはやや高め。つま先と足の甲の当たる部分にそれぞれ同系色のベルトが通っている。グレーの花があしらわれたデザインが気に入っていて、いつか機会を見て履こうと、季節ごとに取り出しては眺めていた。
先日、買ったばかりの服とスカートを姿見の前で合わせていた時に、ふと、これにミュールを合わせて散歩したら楽しそうだと思った。気が向いたらその時とばかりに、魔法瓶に水を入れてカバンに投げ込み、スカートを風に翻しながら自転車に乗ってでかけた。普段は運動靴やショートブーツを履いているので、足先の素肌が風に触れるのは新鮮だった。
駅のそばまで走って、自転車を駐輪場に停める。施設を出て、駅ビルにつながる階段へと軽やかな気持ちで向かった。
階段の途中、踊り場まであと数歩の地点でまず左足に違和感があった。
足の甲を通っていたバンドが緩んできて、一本がソールから抜けて外れた。階段を一段上ると、つま先側にあったアーチ状のパーツも抜けた。左のミュールはほぼ原型をとどめていなくて、かろうじて右足を頼りに歩いたのだけれど、右足のバンドも間を置かず靴底との接着部分が外れ始め、一歩進むごとにパーツがバラバラになった。とうとう足と靴底をくっつけるものがなくなってしまって、ミュールの惨殺体みたいな代物が出来上がり、私は一歩も動けなくなった。
裸足で駅ビルの靴屋まで駆け抜けるか。
一瞬そんな事も頭をよぎった。ミュールはソール部分と靴底の接着が完全に剥がれていて修繕のしようがなかった。
下駄の鼻緒が切れるってこういう気持ちかもしれない。畳み掛けるようにミュールが壊れていったので、漫画的に表現すると、黒猫が列を組んで行く手を横切ったり、カラスの群れが頭上を飛び回ったりする場面だなとコミカルに思いつつ、階段の踊り場で途方に暮れた。
履物が左右いっぺんに壊れるなんて偶然あるのか、でもまぁ、まだ駅の改札をくぐる前でよかった、という、驚きと安堵が交錯する。
とにかく動き出すにはミュールを足に固定しないといけない。
鼻緒になりそうなもの。紐は流石に持ち歩いていない。ただ、そう。なんとかなるかも。
ふと閃いてカバンのポケットを探った。コンビニで買った小物や出先で出たゴミを入れるのに常備している、白くて小さなビニール袋を取り出した。
左足にミュールの靴底を当てて、裏から足の甲へとビニールを紐状に通して結ぶ。一歩歩く。なんとかなりそうだ。右足も同じように固定する。慎重に動かないと脱げそうになるので、恐る恐る、よちよち歩きで階段を上り始める。
ぺったん。ぺったん。
靴底が情けない音を立てる。
駅ビルの中に靴屋が開店するまであと三十分ある。それまでカフェでコーヒーを飲んで待とう。足元のビニールで結んだ部分が遠目からみると若干違和感を醸し出している。しかしビニール袋をカバンの中に常備しているおかげで裸足で歩かずに済んだ。幸いだ。靴が突然、あれよあれよという間に両方とも壊れ始める事態というのもなかなかないもので、積み上げた積み木を崩すような勢いが、もういっそ面白くすらあった。鼻緒が切れて不吉だとしても、これだけ盛大に切れればいっそ清々しい。
それに、そろそろ新しい靴が欲しいと思っていたところで、タイミング的にも丁度よかった。
開店時間になって、三足ほど試着して、爪先のコロンと丸みのある靴を選んだ。サンダルにもミュールにも憧れがあったのだけれど、まぁ一瞬だけでも履けたので、もういいかなと正直思う。元から皮膚が弱くて傷も多かったから、素肌を空気にさらして出歩けるミュールに憧れがあった。足の傷が良くなってから履こうとウキウキしながら買って、数年寝かせおろしたその日に、経年劣化で履けなくなったといういうのは、面白かった上に良い教訓にもなった。素敵なものに出会ったら、やはり買ってすぐに惜しまず使ってしまうのが良い。
少しの間だったけれど足元が素敵になった特別な気分を味わえたので、それで満足だ。
新しい靴を履いて気分を新たに駅の改札をくぐる。おでかけの始まりとしてはきっとそんなに悪くない。そんな風に思いつつ、私は改札にICOCAをかざした。