自分として生きること『従順という心の病』
~読書レポート~
今回は、
アルノ・グリューン著、村椿嘉信訳、『従順という心の病いー私たちはすでに従順になっている』、株式会社ヨベル2016年、
を軸として、
自分として生きることについて、
自立して生きることについて、
考えてみたいと思います。
(自分で最初から読みたい方は、読んでからまたここに来てくださると嬉しいです。)
この本は、心理学療法士の著者による心理学的知見から出発して、「従順とは何か」「従順が引き起こす事態」「従順と戦うには」といった内容が簡潔にまとめられた本です。
①隠された自分
自分として生きる、自分らしく生きる…
それってとっても難しいことだと私は思います。
どうしてそう思うのか?
自分でも自分のことが良く分かっていないからです。
自分として生きたいけど、自分らしく生きたいけど、
その肝心な自分って、一体何者なの??
と思うからです。
このことを言い換えると、
「自分の目に、自分が隠されている」と言えるのではないでしょうか。
そうであるならば、隠されてしまっている自分を見つけに行きたいです!
けれども見つけるためにには、
隠されているということがどういうことなのか、
現状を正しく理解する必要があると思います。
そこで、隠されている現実について、考えてみたいと思います。
グリューン先生によれば、
従順であるということは、他者の意志への屈服を意味するそうです。
つまり、従順であるということは、何者かに自分の思考を預けてしまって、
自分で考えたり、自分で判断することを放棄してしまうということです。
加えてグリューン先生によれば、
従順は水や空気のようなものだそうです。
私たちは従順によって、現代の奴隷や服従者となっているのに、そのことに何も気づかないのだと、語られています。
つまり、自分として生きること、自分らしく生きることを放棄して、
誰かの言いなりになっているのにも関わらず、
それがあまりにも自然なことすぎて、
そのことに気づけなくなっているということです。
このようにして、
自分というもの、自分らしさ、自分が何を思い、感じ、考えているのか、自分がどう生きたいのか、
などなどが巧妙に隠されているということですね!
②隠さなければならなかった自分
けれども考えてみれば、不思議なことです。
どうして私たちは、自分として生きることを放棄してしまうのでしょうか。
どうして誰かに、何者かに、主導権を譲ってしまうのでしょうか。
言いなりになってしまっていることに気づけないのでしょうか。
グリューン先生は、
そうしなければ生きてこられなかった自分が存在することを、
私たちに教えてくれます。
そこで登場するのは、親子関係のお話です。
子どもは身体的に、精神的に、
安心できるところに逃れることができないなら、
不安に押しつぶされ、死ぬほどの恐怖が襲い、
生きていくことができません。
そこで親との関係を維持するために、安心できるところを確保するために、
両親の期待を引き受けることになります。
その期待の枠に自分を押し込んで、
期待の枠から逸脱する自分は押し殺して、
なんとか生存圏を獲得しようとすると、
自分の人生の主導権が、
自分自身から親の理想へとだんだん移ってしまうのです。
その結果、自律的に真理をとらえようという精神は壊れてしまいます。
親の期待に応える自分でなければ、自分は生きていかれない。
愛されない。価値がない。
そんな思いで、子どもは親の期待に沿うように、
自分が低く評価されないように、拒絶されないように、
理性を働かせて感情を押し殺し、生き延びるための闘争を繰り広げます。
親が子どもの弱さを否定すればするほど、
子どもは弱い自分を隠さないと!と必死になります。
悲しくて泣いているときに、「泣くのはやめなさい」と言われたら、
子どもは悲しむ自分、泣く自分を隠し始めます。
腹を立てて怒っているときに、「怒るのはやめなさい」と言われたら、
子どもは腹を立てる自分、怒る自分を隠し始めます。
そんな自分には価値がなく、切り捨てなければならないと感じるからです。そんな恥ずかしい自分は隠さなければとならないと思い、
隠さないと生きていけないと思ってしまうのです。
次第に、自分が何をしたいのか、自分がどう生きたいのか、
自分が何を感じているのか、分からなくなってしまいます。
もう判断基準は自分に無く、
自分が何を思うか、何を考えるかは、
生きる上で大事なことではなくなっていて、
どんどん隠れていってしまうのです。
こうやって客観的に書いていると、
なんとまあ息苦しく、自由の無い人生だこと…と思います。
自分の中に存在していてはいけない部分があるなんて、
そしてその部分を切り捨てたり、隠したりしないといけないなんて、
とってもとっても生き辛そうです。
③隠したい自分
さてここまで、
自分の目に隠された自分が存在すること、
自分でも分からない自分が存在すること、を学んできました。
さらにさらに、
隠された自分、分からない自分には、
隠さないと生きてこれなかった背景、
分からなくならないと生きてこれなかった事情、
などなどがあったことも、学んできました。
ではそんな辛く生きにくい状況にあるのに、
どうしてそのままでいられるのでしょうか?
どうしてその状況を受け入れてしまうのでしょうか?
この件に関しても、
グリューン先生は親子関係のお話を続けています。
簡単に答えを言ってしまうと、
子どもは親を美化して自分のうちに取り込もうとするからです。
親が自分を愛して言葉を投げかけている、
親が自分を愛して接している、
と信じきっているからです。
どんなに辛くても、どんなに悲しくても、
求められる理想の自分がどれほどハードルが高くても、
切り捨てなければならない自分の割合がどれほど大きくても、
どんどん自分を隠さなければならなくなっても、
傷を負いながら、痛みながら、
それができちゃうのです。
なぜなら、親が大好きだから。親が大切だから。
親は自分を愛しているが故に、厳しくしてくれているんだと、
受け止めているからです。
そしてグリューン先生は、
親が自分を愛していないという現実を
子どもが受け入れることはできないと述べています。
親が自分を愛してくれていない、とか
親の愛し方が間違っている、とか
親が自分の理想を追求する故に自分に理想を求めている、とか
そういう類の発想は子どもには最初からなくて、
そんな発想の中に生きることはできない、
ということなのでしょうおそらく。
隠された自分がいて、隠さなければならなかった状況があった。
でもそれだけではなくて、隠したい自分もいたようです。
親も一人の人間で、完璧には愛することができないという事実、
自分には隠している自分がいるんだという事実、
そういったものを見ないようにして、
隠そうとする自分がいるということです。
④隠し続けると?
さて、方向性は少し変わりますが、
グリューン先生は、自分の一部を隠し続け、否定し続けると、
どういうことが待っているのかを紹介してくれています。
キーワードは「憎しみ」です。
自分を隠し続けると、「憎しみ」が生まれるのです。
グリューン先生によれば、
従順にならなければ生きていけなかった事実、
そして従順になるために断ち切らなければならなかった自分自身に対して、子どもは憎悪を抱くようになります。
自分の中に本当は存在している感情、
自分の中の一部である自分の弱さを否定するということは、
自分を憎むことへと繋がるのですね!
さらにもう少しグリューン先生に語っていただくと、
それはいつしか他者への憎しみへと膨らんでいくのだそうです。
人を劣った者と見なすことによって、
初めて自分が自立していると受け取ることができるようになったり、
他者の中にある独自性を罰して、
人が個々の心を尊重して生きることを否定することによって、
自分を正当化しようとするのだそうです。
自分を否定したら、人のことも否定してしまうという訳ですね。
自分の弱さを、自分の感情を否定して、枠の中で生きていると、
枠からはみ出して心のままに生きている人がゆるせないし、
うらやましいし、憎たらしくなるのですね!
⑤隠さないで生きる
さて、一番大事なところに入っていきたいと思います♪
ここまでを一言でまとめてしまうなら、
自分として生きることが難しいのは、自分が隠れてしまっているから!
です。
そうであるならば、自分を隠さないで生きれば良いのでは?
自分を明らかにして生きれば良いのでは?
と思うのではないでしょうか。
これについてグリューン先生は
具体的にどのような示唆をくださっているのでしょうか。
これから私たちはどうすれば良いのか?
そのことに関しての記述は、文量が少なく、
だいぶふわっとした書かれ方をしています。
グリューン先生が言うには、
愛と共感と思いやりを大切にするように、とのことです。
共感する可能性を忘れずに、共感へと向かう勇気を持って、
心を開き、思考を開き、
従順から自分を解放し、自由に生きよ!とのことです。
ふわっとしていて抽象的なので、できるだけ言語化してみたいと思います。
私なりに言い換えてみます。
自分の中にある隠された思い、隠してしまった思い、
例えば! 傷ついたときに隠してしまった悲しさとか、
例えば! 理不尽なことに対して我慢してしまった苦しさとか、
例えば! 本当は言いたかったけれど言えなくなってしまった気持ちとか、
そういうものを、
否定して、切り捨てて、隠してしまうのではなくて、
まずは自分が共感してあげよう!ということなのではないでしょうか。
そうだよね、悲しいよね。
そうだよね、苦しいよね。
そうだよね、嫌だよね。
と共感し、一度その感情があることを自分が認めてあげる。
すると、隠れていってしまいそうになる自分を、見つけられると思います。
すると、誰かの理想にあてはまらなくても、期待に応えられなくても、
確かに存在している自分を肯定してあげられる一歩になると思います。
自分の中にある本当の思いを認めてあげられるようになると、
受け止めてあげられるようになると、
人の中にある本当の思いも認められるように、
受け止められるようになります。
わかるわかる、そういうときは悲しいよね。苦しいよね。嫌だよね。
そんなふうに言えるようになります。
憎しみの対象であったものが、愛しさの対象になるかもしれません。
自分の目に隠されてきたものが明らかにされると、
人の目に隠されているものもさやかに見えてくるかもしれません。
最後に勇気について書きたいと思います。
それまで隠されていた自分と出会う、
隠したくなるような自分と、現状と向きあう、
それは時にとっても怖いことかもしれません。
見たくない自分である可能性が高いからです。
人の理想からかけ離れた、
自分の理想からもかけ離れた、
目もあてられないような自分に出会うかもしれません。
自分を隠さないで、自分を明らかにして生きる、
それは結構怖いチャレンジです。
でも勇気を持ってチャレンジに踏み出したとき、
自分に共感する中で、人に共感する中で、
愛、喜び、楽しみ、慰め、癒し、温もり、可能性、
などなどを見いだし、
自分として生きる幸いを得るのではないでしょうか。
私もその幸いに生きたいと願います。