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いわゆる「ママ友ランチ」と夜の反省会

私には、ママ「友」がいない。
小学生の子どもがいるが、ママ「友」と呼べるほどの気のおけない人はおらず、ママ知人が数名いるくらいだ。
いわゆる、ぼっちである。

今日はそんな数少ないママ知人さんとランチに行き、久しぶりに楽しい時間を過ごした。
しかし夜になって1日を振り返ると、どうしても自分の発言が気になってしまう。
「あの言葉、変に受け取られていないだろうか」「あの返事、もしかしてズレていた気がする」と、つい考え込んでしまうのだ。
ネガティブに思い返してしまうのは、やはり相手のことをまだあまり知らないからだろう。
相手がどんな人で、どんなことに不快感を覚えるのか知っていたら、それを避けることができるのに、それがわからない。

知人に限らず、そういう微妙な距離感が「ママ友」という存在にはあると、私は感じている。
特にママ友との会話には、価値観や状況の違いが絶えず影響する。
育児や教育、子ども同士の友人関係について話していると、夫や家族の話、経済状況に触れるようなデリケートな話題に自然とつながっていく。
そのため、ただ当たり障りのない天気の話だけで会話が終わることはなく、どこかで価値観の違いが露わになるのを避けられない。

例えば「うちの夫は帰りが遅くて、帰宅はいつも20時なの」と言えば「うちは0時過ぎよ」と続く。
「夫が家事は手伝ってくれなくて…ゴミ捨てと皿洗いくらいしかしない」と誰かが言えば「うちは完全ワンオペで大変で…」と続く。
共通のようで共通ではない、共感できそうで微妙に食い違う…愚痴をこぼすにも、下手すると自分より過酷な環境のママさんがいたり、事実を述べるにしてもタイミングが違えばマウントと取られかねない。
それがママ友との会話の難しさだ。

あとは噂話も多い。
誰々さん家の辺りの土地はいくらだとか、ご近所のあの人はいつも車がないとか、あそこの家は夜賑やかだとか。
「あの子は育ちが悪い」「あの子はやんちゃだ」「あの子とうちの子が合わなくて…」「誰と誰がトラブルがあった」という話題は末恐ろしく、何が地雷か分からないため、そういう話になると私は共感を諦め、貝になる。

こうして話していると、女性の会話は共感的だと言われる意味がよくわかる。
お互いに「わかる、わかる」と共感し合おうとする分、相手の状況と自分の状況のズレが際立ってしまう。
相手の話にただ頷くのも不自然だし、かといって話を深掘りすればさらに違いが見えてくる。
共感し合うことが大切にされるからこそ、逆にその共感の中で違いが浮かび上がり、気を遣うことが増えてしまうのだ。

こうして、ただの気軽なランチ会ですら小難しく考えてしまう私は、何も起こってないのに後から気疲れして、また人から遠ざかる。
人が好きなのか、苦手なのか、自分でも分からない。
どうしても反省会をしてしまうのもまた「自分らしさ」かもしれない。
そしてまたもしも次回、お誘いが来ることがあったなら、懲りずにランチに向かうのだろう。
どうでもいい日常の一コマを面白おかしく「すべらない話」にできる芸人さんの才能に憧れを抱きつつ、せめて夜にネガティブな反省会をせずに眠れるような「普通の人」に近づけることを願うばかりである。

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