忘れられない先生

#忘れられない先生

ふと、こんなタグが目に入ってしまった。

良い意味でも、悪い意味でも、忘れられない先生は何人かいる。見た目が特徴的だったとか、こんな言葉をかけられたとか。関わった時間はそれほど長くなくとも、記憶の片隅にけろっと居座る先生は何人かいる。

けれど、「忘れられない先生」と言われて、真っ先に思いつくのは、やはりあの人だ。

高校時代の英語の先生。なんだかいつも飄々としていて、それでいて気だるそうな人だった。けれども、うちにメラメラと燃えたぎるような何かを秘めている人だった。「ロック」。あの人には、そんな言葉が相応しいかもしれない。

あの人を認識したのは、英語の課題提出をぶっちし続けて、呼び出しを食らった日だった。

「なんで出さんの?」

怒るでもなく、あきれるでもなく、ただ質問された。新鮮だった。教師なんて結局は、「出せ」としか言わないと思っていた。「何かあった?」「何か事情があるの?」そんな言葉の裏には、いつも「出せ」があった。彼らの中で、終着点は決まっている。私が課題を出すこと。その終着点にたどり着くために、“シツモン”をしてくる。「何か出せない理由があるの?」「がんばろうね、がんばって提出しようね」努力は、さぞ美しいのだろう。ただ、彼らの望むストーリーをくれてやることが無性に嫌だった。私は、本当にどうしようもない駄々っ子だったのだ。

「なんで出さんの?」

聞き慣れない、訛りがまじったようなその音は、ただそこに浮かんでは消えた。後腐れのない、ただの音だった。面食らった私は、ぽつぽつと素直に思っていることを漏らし始めた。

あの人の言葉には、裏がない。その瞬間の自らの感性に、真っ直ぐなところがある。それは、あまりに無防備なコミュニケーションではあるけれど、どこかで私が切望し、そして、諦めたコミュニケーションのような気がする。いつからか、相手の感情や行動を予測し、そうなるように仕向けるコミュニケーションばかりになっている。

いつか私も、あの人のように無防備に自分を曝け出せるだろうか。そして、私の予測しない(あるいは望まない)感情や行動にも臆することなく、君と話せるだろうか。

正解も間違いもなく、ただそこに在ることを賞賛も否定もされない。ただそこに在るだけの感情。そんな見つめ方も、できるようになるといい。

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