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ボランティアと、家族の“カタチ”について考える
こんばんは。今日はお世話になっているところのイベントのお手伝いをしてきました。
そこで考えたことをいくつか覚え書きします。
ボランティアは、迷惑なのか?
最近はいくつか、別の機会でボランティア活動をしています。なんでボランティアなのかは、正直わかりません。偽善に近い何かが原動力です。
そこで、ボランティアは主体的に動けないことに気づいてしまいました。つまり、ボランティアはお客さまの立場になってしまいます。
そのお客様の立場でも、率先して動くことはできます。でも、運営側とは違うのです。ここがもどかしい。どうしても指示待ちでしかない。
でも、ボランティアをすることが偽善で役に立たないとは考えていません。これはボランティアをする側だから考えてしまうのでしょうけどね…。
家族の形
突然ですが、あなたには家族がいますか?
私は両親、兄、姉がいます。祖父や従兄弟も。
最近はあらゆる家族の形を目にする機会があります。日本ではなかなか理解を得られない家族の形があることも、世間の話題に上がっていますね。
血のつながりだけが全てではないと、最近強く思います。ついつい私たちは「〇〇ちゃん(くん)、お父さん(お母さん)にそっくりね」なんて口にしてしまいます。
これ、意外と偏見に塗れているのでは?という問いかけです。いやでも、別に顔が似ていなくたってなんとなく似ていることだってあるしそれはむしろ当事者の方でも嬉しい場合はあると思います。
言っちゃダメだとは思いません。
当事者でもなんでもない私が口出したくない…けど考えるのはいいと思ってます。それぞれの意見なので。
まあ、私が思っているのは「何事もそんなに気にならない社会」がいいなと思います。意識しすぎることが新たな排除を生むと考えているので。
問いかけはある意味意識を生み出します。それをさらに無意識化することに意味があると思います。
体裁を変に意識せず、何かにレッテルを貼らず、実際の対話を通して自分の考えを形成していける世の中が良いです。
行間に身を任せすぎて、何かとまとまらない文章になってしまいました。逆に、全てを皆さんに話す必要もないですし、話さないことにも意味があると考えています。
noteが双方向に使えたら嬉しいです、読者と作者の関係を取り壊す試み、ありかも
今日はここまで、
文章の成長も見どころです。
ここまで読んでくださってありがとうございます。