桂小五郎青雲伝 ―炊煙と楠― 第二十章 対決の炎
『 小五郎伝 ―萩の青雲― 第二十章 対決の炎 』
火山 竜一
第二十章 対決の炎
翌日、小五郎は桂家の濡縁(ぬれえん)に腰かけて、庭の棕櫚(しゅろ)や蘇鉄(そてつ)を眺めていた。弥之助が、庭の枯れ葉を掃いている。
静かな庭に響く箒(ほうき)の規則正しい音が、小五郎には心地よかった。
小五郎は昨日の稽古場で受けた。内藤作兵衛の技を思う。
小五郎が大刀を袈裟に振り下ろした刹那、床板に叩きつけられていた。天地はひっくり返り、小五郎は天井を見上げていた。
小五郎の大刀は作兵衛に抜き取られ、小五郎は板敷に大の字になってしまった。
――あれが、無刀取りか。
得意な受け身が、まったくできなかった。子供のころに木登りしては飛び降りて、身に着けた受け身が通用しなかった。
――先生こそ、月光の下で、無刀取りの一人稽古を積んだにちがいない。
小五郎の中に、剣術の極意を求める思いが芽をふいた。
闇の中で、いかなる相手に対しても、無刀取りで勝てるのであれば究極の技だ。
昨日の立ち合いで、小五郎の体は全身傷だらけである。打ち身や打撲の跡は体中無数で、喉も相手の突きで痛めていた。
小五郎は体を休めたいのに、稽古場での立ち合いの興奮が、まだ残っていた。
小五郎には、五人と徹底的に打ち合った充実感がある。ただ、心の底には、虚しさと悔しさが、沈殿していた。
小五郎は溜息をついた。
「弥之助、終わっちまった。せっかく五人と立ち合いができたのに、押しきれなんだ。内藤先生が与えてくれたせっかくの機会を、ふいにしちまった」
小五郎は己に腹が立ってきた。
唇を噛んで、散らばる枯れ葉に目を落とした。枯れ枝や枯葉を蹴散らしたかった。いっそのこと、木刀で周りの枝という枝を叩き落としたかった。
弥之助は庭を清めるように、一か所に枯葉を集めている。
小五郎は吐き捨てるように口走った。
「いっそのこと、勝手に行くか。江戸へ」
弥之助は箒を止めて、小五郎を厳しい顔で睨んだ。
「今、なんとおっしゃいました」
「だから、自分で江戸に行くっていったのさ」
弥之助の雷が落ちた。
「それこそ、亡命(脱藩)でござる」
弥之助は慌てて周りを見回して、小五郎に身を寄せるた。濡れ縁に浅く腰かけると、今度は抑えた声で囁いた。
「吉田先生と、同じでございますよ」
弥之助の小さな目が瞬きもせずに小五郎を見つめている。岩のような頑丈な顔を、左右に振った。
小五郎は口を半開きにして、弥之助を見た。
「なんと……確かに」
弥之助は、小五郎の膝を掴んだ。指が膝に食い込む。
弥之助が激しく小五郎の膝を揺さぶった。
「そんなことをすれば、桂家は、おとり潰しになるかもしれませぬ。関ヶ原以来のわが桂家は……終わりでございますよ。しっかりして、くだされ。己を見失ってはいけませぬ」
小五郎は弥之助をまじまじと見た。
弥之助の髪は薄く、もみ上げは半ば白くなり、額は広く、髷は真後ろで結ばれている。
桂家一筋の弥之助の言葉は重かった。
――そうか。亡命とは、なんと簡単なことか。禁を犯すことは、誰でもできること。吉田先生が特別ではないということか。
小五郎は庭に下り立つと、空を見上げた。上空をスズメやヤマガラが飛び交っている。
鳥たちを、小五郎は彷徨(さまよ)うような目で追いかけた。
「俺は、籠(かご)の鳥か。籠の中で、ぴいぴいと鳴くだけか」
玄関の外で、娘の声が聞こえた。
「ごめんくださいませ」
弥之助が、箒を濡れ縁の横に立てかける。
「へい。ちょっとお待ちを」
弥之助は、庭を周って玄関に走っていった。
小五郎は濡れ縁を上がり、座敷にもどった。
玄関から、しっかりした娘の声が聞こえてきた。
「寿(ひさ)と申します。兄、吉田大次郎から、これを桂様にお渡しするようにと、ことずかってまいりました。よろしく、願い申します」
娘は十四、五歳であろうか。
玄関の戸が閉まり、弥之助が座敷に戻って来た。小五郎の伸ばした手に、弥之助は大次郎の手紙を乗せた。
「なんだろう。こんなときに」
小五郎は胡坐(あぐら)をかいたまま、手紙をざっと広げて目を走らせた。
手紙には、昨夜、密かに江戸練兵館の斎藤新太郎が大次郎の家に立ち寄ったという。
新太郎は、明倫館での小五郎の立ち合いについて、大次郎にその顛末を教えてくれたとある。
さらには、新太郎が二年ほど前の嘉永四年に萩に寄った際、大次郎に兵学入門起請文を四月朔(ついたち)日に出したという。小五郎が起請文を出してから半年後のことである。
新太郎は、大次郎に、五人との立ち合いを身振り手振りで話しては、小五郎が江戸行きの選に漏れたことを大変残念がっていたという。
小五郎の目が、手紙の最後の行で止まった。
大次郎の手紙には、小五郎が自費で江戸に行くという条件で『内藤先生に、政庁への推薦状を書いてもらいなさい』とあった。
江戸行きの五人は藩が経費を出す。
小五郎は九十石であるが、和田家には資産があり小五郎も昌景から財産の一部を相続していた。江戸行の資金はあった。
「自費で江戸行を正式に申し出て、役所から許可が出るかなあ。そんなこと、考えてもいなかったよ。すでに決まったことだ。無理だろう」
小五郎は脇に座る弥之助に、手紙を広げたまま渡した。
「弥之助、どう思う」
弥之助は、手紙の一言一言を小さな声を出して、ゆっくりと噛みしめるように何度も目を通していく。読めぬ語句があるのか、ときどき首を傾げている。やっと読み終えると、弥之助は手紙を広げたまま小五郎の手にそっと返した。
「何か……裏がありそうですな」
小五郎は手紙の『自費』の一文を見つめた。
「俺もそう思う。五人が決まった後で、同じことを自費で願い出るとはな。弥之助、江戸まで、仕送りをできるか」
弥之助は胸を張った。
「お金の工面は、おまかせくだされ。友藏とも相談いたしまする。ここは先生の策に、のるべきではございませぬか。何か仕掛けがあるのかもしれませぬ」
小五郎は、よしと膝を打った。
さきほどまで落ち込んでいたことを、小五郎はもう忘れている。
「今すぐ、内藤先生のところへ行こう……いたた」
小五郎は立ち上がろうとして、よろめいた。昨日痛めた腰を押さえた。
「弥之助、すまぬ。兄上からもらった膏薬(こうやく)を、腰に塗ってくれぬか。ついでに肩も」
小五郎は上半身裸になると、座布団を一列に並べて、腹ばいに寝そべった。
いたるところ擦(す)り傷と痣(あざ)だらけだった。
こうして、小五郎は膏薬の匂いをぷんぷんさせながら、内藤作兵衛の自宅を訪ねた。
「吉田先生から手紙をいただきまして、手紙には、内藤先生のところに伺えとありました」
作兵衛はすぐに小五郎を座敷に通した。
「わしのところにも、吉田先生から、意外な文がきた」
作兵衛は、大次郎の手紙を床の間から手に取った。
小五郎より、厚い手紙であった。
お寿が桂家に寄ったその足で、内藤家に向かったのであろう。
作兵衛は手紙を広げた。
「まいったな。この手紙には。火傷しそうじゃ。読み上げるから、よく聞け」
作兵衛は大次郎の手紙を、ゆっくりと読み上げ始めた。
手紙は、昨日の立ち合いに触れつつ、さすが選抜した五人は見事なりと、先生方を持ち上げるような書き出しであった。
小五郎は端座したまま、全身で聞いた。
手紙は次に、小五郎が過去に江戸行きを願い出て、却下された経過が記されていた。
門下の生徒で、いの一番に江戸行を申し出たということは、これこそ小五郎が明倫館の中で江戸遊学への意欲が最も高い証であるといい切っている。
小五郎は思い出して、恥ずかしくなった。
一方では、大次郎の論法に、こうした見方もあるのかと意外な視点を思った。
――先生は佐伯が握り潰した願い出を、逆手に取ろうとしている。
さらに、剣術の力量は、選ばれた五人との立ち合いで、斎藤新太郎も見届けているということ。
新太郎から直接聞いたとは、一言も書いていない。
それなのに、実に具体的に、まるで実見したように、立ち合いの有様と評価が書かれていた。作兵衛は読み上げながら、ため息をついた。どうして知っているのだという顔をした。
作兵衛は顔を上げた。
「小五郎、吉田先生は斎藤殿と会ったのか。それとも、斎藤殿の門弟が告げたのか。実に詳しすぎる。それとも、お前か」
小五郎は慌てて手を振った。
「滅相もない。私は、昨日、臥せっておりました。私には、一向にわかりませぬ」
小五郎はとぼけた。
「だろうな。昨日の今日だからな。いくら小五郎でも無理だ」
作兵衛は手紙に目を向けて続けた。
小五郎の剣術の伸びしろは、他の五人と比較しても引けを取らず、小五郎の将来性は内藤先生がよく御承知でしょうとある。
でなければ、何故、生徒全員の見ている前で、五人との立ち合いを行ったのか。さらには、先生が身をもって、小五郎に無刀取りを伝授されたのでしょうかと。
もしここに大次郎がいれば、作兵衛に舌鋒が鋭く詰め寄っていくような論法であった。
さらに、大次郎は、現実的な解決策を提示する。
小五郎は他の五人とは違い、自費で江戸に行く資力があること。毛利家に一切負担をかけないことは明白なりと。
小五郎には、作兵衛の声が大次郎の声のように聞こえてくる。
手紙は止めを刺すように展開する。
小五郎の漢詩漢学の才は抜群である。親試で二回も激賞されて、金二百疋(ひき)の御褒美(ごほうび)まで賜り、殿も激賞していると。
小五郎は、親試の時の佐々木源吾の顔を思いだして、恥ずかしくなり、つい首をすくめてしまった。
大次郎自身が親試をやり、殿の評価を得て江戸行ができたのに、小五郎が行けぬ理由はないとも云い切っている。明倫館で選ばれて殿の御前で親試をやったのに、江戸に行けぬとは何事かと。
もちろん、選抜は親試とは別である。だが、作兵衛は責められているように思ったのか、頬に少し赤みを帯びてくる。この大次郎のいい方では、剣術師範たちへの抗議にも読み取れる。
小五郎にも強引に聞こえる。
作兵衛の声に不機嫌な響きがこもる。
小五郎が体調不良で明倫館を休んでいたことについても、手紙は触れていた。
大次郎がお見舞いで自ら和田家に訪問したこと。小五郎が和田家の二階にて、幅広く書籍に目を通していること。学問の進展が著しく、すでに明倫館の講義を超えていると。
小五郎は畳に目を落とした。穴があったら、隠れたかった。
――いくらなんでも、大げさすぎる。
最後に手紙は、江戸練兵館は全国から精鋭が集まっており、剣術だけでなく最新の兵学を学ぶことができる。小五郎が練兵館の館長斎藤弥九郎のもとで、自分を磨き知見を広めるのは、若い今しかないと言いきった。
今や大次郎は蟄居(ちっきょ)の身でありながら、全力で小五郎を江戸に送り込もうとしていた。役人の都合で、小五郎の江戸行きが握り潰されてはならないと憤ってすらいる。
小五郎は大次郎の家にお忍びで寄った夜のことを思い出した。佐伯丹下の顔が浮かんでくる。
――先生は、佐伯殿と対決している。
小五郎は、作兵衛の手に持つ大次郎の手紙に、両手をついて深々と頭を下げた。
手紙は最後に、内藤先生に一筆推薦状をお願いしたいと締めくくられていた。大次郎、渾身の願いを、かなえたまえと。
作兵衛は話を終えると、手紙を折り畳んだ。
小五郎は深く平伏したまま動かない。
小五郎は畳に向かったまま、必死の声を絞り出した。
「先生、お願いします。江戸に行かせてください」
作兵衛は手紙を脇に置いた。
腕を組み、しばし瞑目して、溜息をついた。
「桂、お前、いくつになった」
作兵衛の意外な問いに、小五郎は思わず顔を起こした。
怪訝(けげん)な顔をした。
――作兵衛先生は、急に何をいい出すのだろう。
「二十歳(はたち)になりましたが、何か」
作兵衛は独り言のように呟いた。
「そうか、よい時期かもしれぬ」
作兵衛は何とも残念そうな顔をした。
「お前を手元において、もう少し仕込みたかった」
作兵衛の声は沈んでいた。
「お前を、わが新陰流を継ぐ器だと思っておった。『江戸病』は、青年にありがちなことだ。時が過ぎれば、いずれおさまるであろう。もちろん、江戸の練兵館のことは、よく存じておる」
作兵衛は膝を指先で軽く叩く。後ろに振り返り、付け書院から木箱を引き寄せた。
「わかった、これを持って、役所へ届け出よ」
作兵衛は、木箱の中から、すでに用意していた一枚の推薦状を取り出した。一筆認めただけの簡単なものではあった。
作兵衛は推薦状を小五郎に手渡した。
作兵衛は寂しそうに笑った。
「わしの負けじゃな」
小五郎は作兵衛から推薦状を押し頂いた。
作兵衛の落胆は小五郎の胸にも強く響くものがあった。
ふと小五郎に閃くものがあった。
「江戸では、必ず斎藤新太郎先生の弟、勧之助殿から一本取ってみせまする。わが明倫館の腕達者が束になっても敵わなかった『鬼勧』に、勝ってみせまする」
かつて、明倫館から十人ほどの門弟が江戸に向かい、練兵館の稽古場で、勧之助と勝負したことがあった。
兄の新太郎はいなかった。出てきた弟の勧之助は、まだ十七歳でありながら、すでに江戸では『鬼勧』と呼ばれて恐れられていた。
明倫館の門弟は、全員この勧之助の突き一本で仕留められてしまった。小五郎が闇の中を彷徨っていた頃の話である。このことは、明倫館では知らぬ者はいない。
途端に、作兵衛の顔色は変わった。武芸者の顔になった。稽古場での気迫がよみがえった。
作兵衛は小五郎を頼もしそうに見て、大きく頷いた。
「よし」
作兵衛は気合を発した。
「小五郎、わが門弟の仇を討て。お前ならできる。わしもあの件は、悔しくてならん」
作兵衛は吹っ切れたのか、晴れ晴れとした顔をした。
「今の五人では『鬼勧』には、通用せぬ。だがお前なら、江戸で大化するかもしれぬ。よし、何か何でも、わしが江戸に送り込んでやる」
作兵衛は勝負師の顔になった。
「よいか、練兵館でいきなり本気の勝負をするな。『鬼勧』の前では、しばし猫をかぶっておれ。相手の得意技を引き出し、好きなようにさせるのじゃ」
作兵衛は勧之助の突きについて語り、小五郎に策を授けた。
「小五郎、技が見切れるまでの辛抱じゃ。技の起こりを見抜くのが、まず肝要だ。『鬼勧』を料理するのは、それからでよい」
こうして、作兵衛は楽し気に玄関から小五郎を送り出してくれた。小五郎は作兵衛の推薦状を胸に和田家に向かった。
小五郎は和田家で、文譲に事の経緯を説明した。
「大きな話に、なってしまったなあ」
文譲は仕方ないと、了承してくれた。
小五郎は届の準備に入った。
数日後、小五郎は本丸に入ると江戸遊学の届けを出した。
小五郎が北の総門から出ようとすると、佐伯の奉公人に呼び止められた。佐伯が至急会いたがっているとのことだった。
小五郎は佐伯丹下のいる本丸東側の大判所などがある詰所に案内された。佐伯丹下の執務室に入るのは初めてだった。
小五郎は前回の届け出のことを思い出した。文譲が佐伯から「これはだめだ」といわれたのは、ここあたりであろう。
詰め所では、佐伯の事務的で不機嫌そうな声が迎えた。
「小五郎。そこへ座れ。しばし、待て」
小五郎は指示されるままに、大刀を右脇に置き、佐伯の前に袴を折って座った。
苛立っている佐伯に、小五郎はどう挨拶したらよいのか戸惑った。小五郎は剣術の五人掛け以上に緊張していた。
佐伯は小五郎に見向きもしない。
眉間に皺(しわ)をよせて、前の書類を次々と決済している。
佐伯は書類の処理を一段落させると、ようやく小五郎に向き直った。
小五郎には、佐伯が苛立っているように思えた。
「小五郎、わしはな、前回の申請もそうだが、まだ江戸行きは早いと思うておる。昌景殿が御存命ならば、同じことを申すであろう」
佐伯は敵なのか味方なのか。いや、そのどちらでもない。それだけに小五郎には厄介であった。
最大の壁でありながら、どうやって乗り越えたらいいのか、小五郎にはわからない。
「よいか、小五郎。江戸は誘惑が多すぎる。酒におぼれる者、吉原で浮かれて散財する者、博打に溺れる者。独り者で力を持て余している者の中には、他の藩士と、もめ事を起こす者もいる」
佐伯は小五郎を醒めきった目で凝視する。役人として、まったく隙が無いように思える。
佐伯は腕組みをした。
けっして体は大きくないのに、見下ろされているようだった。
「考えても見よ。何のお役もなく江戸に行って何を学ぶんだ。ふらふらして有頂天となり、お前が遊びまわるのが目に見えるようじゃ。小五郎、よいか、所帯を持ってからでも、江戸行は遅くはない。お前が何を学びたいのか、まったくわからんが、ただの遊学などは遊びだ」
小五郎は剣術の立ち合いのように腹を決めた。
――もう子供扱いは御免だ。佐伯様は今の俺が分かっていない。
「お前は伸びると、わしも思うているよ。よく昌景殿と、そんな話をしたもんだ。ただ家に守るべき者がいて江戸に行く。お前には、すでに幼い跡継ぎがおるではないか。勝三郎をどうするつもりだ。文譲殿に押し付けるのかい。父としての務めもあろうが」
佐伯の声はよどみなく、よく通る声だった。
「子と嫁と、順は逆でもな、これから嫁をもらえばいいのじゃ。わしが世話してやっても良いぞ。これで外向けには体裁が付く。一人前に身を固めてからでも、江戸行は遅くはない。此度の件、わしの本音は不承知じゃ」
小五郎は憮然とした。
小五郎は決意した。たとえ幼いころから親しい佐伯でも、抵抗しなければならない。ここで引き下がるわけにはいかない。
小五郎は佐伯を見返した。
「佐伯様。では、此度も却下ですか。小五郎は承服できませぬ。ほかの五人がよくて、なぜ私がだめなのです。内藤先生も『よかろう』と、おっしゃっていただきました」
小五郎の声は、撃剣の立ち合いのように気迫があった。
佐伯は小五郎の抵抗に、鼻で笑って受け流した。
「よいか、お前は、いずれは殿の江戸参勤の随行をして、家臣としての勤めを果たすときがくる」
佐伯は目上の者が目下の者に教え諭すように、ゆっくりと語る。
「文譲殿も侍医として、同様に随行するのは間違いない。わしがお前を押すのは、そのときだ。兄弟で江戸勤めとは、晴れがましいではないか。一人前に務めを果たして帰って来る。大組士として、これが最もよい道だ」
佐伯は勝手に先々の流れを考えて決めつける。
役人の世界ではだれも異存のない考え方だと。
これでどうだと、しばらく、佐伯は小五郎の顔を凝視した。
小五郎はどう言い返したらいいのか、口ごもってしまった。
突然、襖があいて、小姓が入って来た。
小五郎には見覚えがあった。
――俺が親試の時に、殿の脇に控えていた小姓だ。
小姓は佐伯に耳打ちした。
「殿がお呼びでございます」
小五郎にも、小姓の声が聞き取れた。
佐伯は頷いた。
「何であろう。ちと、小五郎、待っておれ」
佐伯は立ち上がった。
まてよと、佐伯は決済箱を見下ろした。
決済箱の書類の下から文書を取り出した。小五郎の届け出と内藤作兵衛の推薦状であった。もしかしたら、この件かもしれぬと、佐伯は直感したらしい。役人の勘であろう。
佐伯は書類をもって、足早に小姓と出て行った。
廊下を足音が忙しく遠ざかって行った。
しばらくして、佐伯が帰って来た。
小五郎の書類を脇の机に置いて、小五郎を睨んだ。
「おい。小五郎。どういう手を使ったんじゃ」
佐伯は憮然としている。
小五郎は不機嫌に吐き捨てた。
「おっしゃっている意味が分かりませぬ」
佐伯は激しい声で、いい切った。
「天の声じゃ。お前の江戸行が決まった。まだ、この書類を殿に回していないのにだぞ。いったい、どういうことだ」
佐伯は中空を見上げた。
己の感情を鎮めようとしている。
「殿がな『此度の江戸行の件、親試のあの小僧も行かせろ』とおっしゃったのだ」
小五郎も、あまりのことに、声が出ない。
佐伯は息を深く吸い、ゆっくりと吐いた。
いつもの佐伯にもどっていた。様々な文書を決裁している役人の顔であった。
「仕方が、あるまいな」
佐伯はため息をつき、急に言い訳めいたことを口にした。
「先ほどのはな、わしなりの考えじゃ。此度は上の方から行かせろというのだから、覆(くつがえ)すつもりはない。だが、わしは小五郎のために『江戸で浮かれるな』とは申したい。昌景殿の代わりに、お前の行く末を心配しているだけだ」
決着がついた。
小五郎は、佐伯に膝を詰めた。
「佐伯様、今のお言葉、けっして忘れませぬ。江戸で精進いたしまする」
佐伯は頷いた。
佐伯はようやく江戸屋横丁で見かけるときの見慣れた顔にもどった。
「よし。行け。江戸から帰ってきたときは、土産を持って来いよ」
「はい。けっして忘れませぬ」
「こいつ」
小五郎が部屋を出ようとした。
安堵した思いから、つい笑みがこぼれた。
江戸行の準備に入らぬばならない。喜びがこみ上げてきた。
「待て、小五郎」
佐伯の激しい声に、小五郎は呼び止められた。
佐伯が深く眉間に皺(しわ)を寄せて、中空を睨みつけている。
先ほどの厳しい顔にもどっている。
「わかったぞ。殿に仕掛けたのは、吉田大次郎だな」
佐伯は小五郎を睨んだ。
「此度の件、……あ奴の仕業であろう」
「佐伯様、それは」
佐伯は小五郎の声を遮った。
「江戸での亡命にしろ、此度の遊学にしろ、勝手放題は許さんぞ。家中の乱れに通ずる。厳罰をもって処分せねばならぬ」
佐伯は吐き捨てるように、いい切った。
小五郎には、炎が大次郎に燃え移ったように思えた。
小五郎の江戸行きは、こうして大次郎の処分に不安を残して決着した。正式な手続きは進み、あっさりと江戸行きの許可が出た。
なんと期間は三年。選ばれた他の五人は、たかだか一年である。
小五郎が延長を願い出れば、さらに稽古を江戸で修めることができるという。破格の内容だった。
小五郎には、許可の向こうに殿と大次郎の思いが垣間見えた。
嘉永五年(一八五二年)九月二十三日のことであった。
夜中に、小五郎は大次郎の家にいた。
大次郎の家族の者は寝ている。
小五郎は江戸行きの許可を報告して、大次郎にお礼を述べた。
むしろ小五郎と佐伯との一件が大次郎の処分にどう影響するのか、小五郎は危惧を抱いていた。
小五郎の報告に、大次郎は両手で膝をたたき、子供でも生まれたように喜んでくれだ。
「よかったなあ。やっと江戸行きだ」
小五郎は佐伯とのやりとりを伝えた。
「佐伯様は、不本意ながら、許してくださいました。とてもご立腹ではございました」
「ほう、そうかい。あの佐伯がな」
大次郎は行燈の明かりの中で『してやったり』と、含みのある笑みを浮かべた。
佐伯は奥番頭で直目付として、常に殿の側に仕えている役職だ。
――吉田先生は、ここから、殿に手紙を出したにちがいない。先生の亡命に関する処分で、最も悩んでいるのは殿だ。先生からの手紙が届けば、殿はきっと読むはず。
「先生。仕掛けましたね」
大次郎は切腹すらもありうる身で、自身の弁明などを考えず、ただ小五郎のために殿に手紙を出したことになる。
「さあ、どうだろう。桂君の熱意の賜物(たまもの)ではないか」
とぼけた大次郎の明るさは、底が抜けていた。
「そうと決まれば、私から餞別(せんべつ)をやろう」
大次郎は脇に置かれた厚紙をだした。小五郎にちょっと見てくれと、手渡した。
小五郎は厚紙を開いた。
「なんと……万国全図ではありませぬか」
以前に見た牛や馬の絵のような代物ではなかった。見事な出来だった。
入り江や島も詳細で、地名も入っている。
緻密で正確な万国全図の下に『桂君へ』と記されていた。斜めの癖のある筆跡から、大次郎自筆のものであることがわかる。
江戸行きの許可が出れば、小五郎が必ずお礼に来る。その時に手渡そうと、大次郎は日夜繰り返し書き直して、万国全図を完成したのであろう。
小五郎は、ほとんど瞬きすら忘れて、見入っていた。
「先生、本当にいただいて、よろしいのでしょうか」
「もちろんだ。また、へたな絵を描(か)いたのさ」
大次郎の穏やかな声に、小五郎は言葉もなかった。
大次郎は心底嬉しそうだった。
「これを江戸行きの友にしてくれ」
小五郎は神棚に供(そな)えるように押し頂き、そっと折りたんで懐に入れた。
大次郎は、いつものように唐突に、胸の想いを語りだした。
「桂君、清国の次は我が神州だ。我が神州は今なんの備えもない。小さな国に別れておる」
大次郎は独り言のように続けた。
「考えてもみよ。夜には子供たちは楽しい夢を見ている。女たちは家族の生活を思い、務めを果たした男たちは、一日の疲れを癒して、明日の幸せを願って床につく」
灯心のじりじりする音が聞こえた。
大次郎は目を閉じた。
「毎日変わらぬ暮らしに安住して、美しい月を見上げ、風の響きに安らいで、小川のせせらぎや、渚の小波を楽しんでいる」
大次郎の一言一言が、小五郎の心の底に染みわたっていく。
「いったい、そんな暮らしを永遠に続けられるだろうか。桂君、清国の情勢からすれば、今やわが神州に、何が起こってもおかしくないのだよ」
小五郎は大海の遥か先に思いをはせた。
大次郎の明るすぎる声に、不安を感じた。
「先生……また、ひと合戦するおつもりですね」
大次郎の目が厳しくなった。
「ああ、何度でもだ」
深夜、小五郎はかつてのように杉家の庭に下りて、草履を履いた。
大次郎も濡れ縁に立った。
「桂君、井上君のことだが」
小五郎は振り返った。大次郎に会いに来た夜のことを思いだした。あの時に、先に来ていたのは、井上壮太郎だと聞いていた。
「彼も此度の江戸行きを、桂君と同じく自費で行く。私のせいで、江戸の遊学が中断されたが、再度江戸へ送り込むことができた。嬉しい限りだ。今度は砲術を学びたいそうだ。井上君をよろしく頼む。羽目を外さぬように、見てやってほしい」
井上は、過去に酒で暴れて謹慎処分を受けていた。
豪放な男だが、どこか憎めない。しかも、大次郎の一件で、再度の処分を待っている。
小五郎は驚いた。小五郎の白い歯が、月光の下でこぼれた。
「先生、酒のことですね。おまかせください。井上殿の酒癖は、よく承知しておりまする。なにしろ、剣術では、内藤先生の同門ですからね」
これで、江戸行きは七人になった。
小五郎は庭先で大次郎に頭を下げた。
「では、ちょっと、江戸に行ってまいります」
まるで隣近所に寄るような言い方をした。
小五郎は大次郎の身を案じながら、杉家を後にした。
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