桂小五郎青雲伝 ―炊煙と楠― 第十一章 明倫館の朝がくる
火山 竜一
第11章 明倫館の朝がくる
小五郎は十三歳になった。
一月のこと。本日は明倫館の登校初日である。
小五郎は和田家の暖かい寝床から、起き上がれない。寝床に深く潜り込んで、横を向いてお古の箱枕に頭を乗せ、膝を抱えて爆睡していた。
小五郎が額を割ってから、半年後の寒い朝のことであった。
突然鼻を強くつままれた。
鼻がねじられる。
千切れそうだ。
小五郎はもがいて、振り払おうとした。
「いたい、無礼者、ゆるさぬ」
小五郎はあまりの眠さで、目が開けられない。
「何が無礼者ですか。鼻よ、高くなれ、高くなれえ」
母の声が耳に飛び込んだ。
小五郎の重い瞼が少しだけ開いた。
お清が小五郎の鼻を何度も回す。
小五郎の顔が振り回される。小五郎はもがいた。
「やめて。息ができない。死ぬ。母上に殺される」
お清は小五郎の掻(か)い巻き布団をはいだ。
「何を言ってるの。明倫館に行くんでしょ。昨日、自分で布団を出して、早く寝たじゃない。最初から遅れたら、佐々木先生に嫌われますよ」
本日は、佐々木源吾先生の漢学講義の初日。
皆より講義に遅れると、誠にうるさいと評判の先生だった。
明倫館は、朝五ツ(午前八時頃)から始まる。終日儒学を学び、武芸の稽古をする日だ。
今日はまだましである。
文学の素読がある日は、さらに朝が早い。文学がないだけ、まだましである。小五郎にとっては、苦手な冬の朝だった。
隣の間に、すでに小五郎の膳が置かれていた。
友藏が忙しく行き来している。まだ、家族全員の膳はそろっていない。
小五郎は家族みんなを待ってはいられない。先に食べるしかない。
小五郎はようやく鼻を押さえて、何とか起き上がった。井戸で簡単に軽く顔をすすぐ。水が冷たすぎるので、目を覚ます程度で十分だ。
小五郎は手拭きで顔を拭いながら、茶の間に走った。膳の前にぽんと座り、朝餉を猛烈にかき込んだ。
箸と茶碗の音が騒々しい。ぐいと飯を飲み込み食べ終わる。
小五郎はお清が用意した大き目の羽織袴に、両手両足を通し帯を結んだ。
若衆(わかしゅ)髷(まげ)は乱れたままだった。
小五郎は奥座敷で、脇差を帯に差す。
本を抱えて、お清に胸を張った。
「母上、じゃ、行ってまいります」
小五郎は玄関に飛んだ。
「待ちなさいったらあ」
お清は手早く髷(まげ)と小五郎の羽織袴の乱れを直した。
「羽織と袴だけはご立派なこと。汚さないでね。後で洗うの、大変なんだからね」
小五郎は門の外に駆け出た。
弥之助が待っていた。
小五郎は明倫館まで、弥之助を従えていくつもりだった。でも、足は止まらない。
「おはようございま、あっ、お、お待ちを」
小五郎は弥之助の横を走り抜けた。
弥之助は慌てて、胸を反り返ったまま追いかける。
「勘弁してくだされ。走るのは、苦手でございますう」
小五郎はというと、腰の帯に差した脇差とはいえ、小さな体ゆえ、刀の慣れない重みに刀の鞘(さや)尻(じり)が地面を擦(こす)りそうだった。
お清の声が、小五郎の背中をたたいた。
「小五郎。忘れ物は」
小五郎が振り返る。
門前でお清が日差しに手をかざし、見送っている。
「ない」
息の荒い弥之助。
小五郎は構わず、通りのを抜け、角から駆け出たお清に危うくぶつかりそうになった。
お清は息が乱れたまま、萩城の南、堀内三の曲(くる)輪(わ)(三の丸)にある明倫館を指さした。
「明倫館は、あっちでしょ」
「はい、心得ました。弥之助、行くぞ。いざ、出陣じゃ」
小五郎は駆けながら笑い声を上げた。
小五郎は袴を蹴った。
「何が『心得ました』ですか。弥之助、たのみますよ」
お清のため息が聞こえた。
弥之助は息絶え絶えである。
「へえ、ご心配なく」
やっと弥之助は声を振り絞る。
小五郎の走る先に、明倫館が見えてきた。
佐々木源吾は、朝の漢学の講義を終えると、明倫館の門を出た。
足を江向に向ける。向かう先は、向南塾である。
向南塾の岡本権九郎とは、磯釣り仲間で、昔からの知友の間柄である。釣りの後、どちらかの屋敷で一献酌み交わすのが楽しみの二人である。
だが、今日は違う。
佐々木にとっては、明倫館の勤めの延長である。
佐々木は、向南塾から明倫館に生徒が入学してくると、いつも岡本の評価を聞きに行く。
師匠同士で、生徒についての引き継ぎをする。
佐々木の懐には、明倫館の生徒の名簿があった。
本日の講義で、佐々木なりに、それぞれの生徒の指導方針は見えてきている。
とはいえ、向南塾で今まで指導してきた岡本に、生徒の課題や特性を確認しておきたいと思っていた。
――それにしても、今年の向南塾の生徒は、落ち着きがない。岡本殿はおおらかだからな。毎年のことだが、一目で向南塾の生徒だとわかるわい。
佐々木は小太りでせっかちである。気が小さいところもあるが、教育指導の熱心さでは人後に落ちないと自負している。自分のところに来た生徒は、特に徹底的に知ろうとした。
まあ、親しい中である岡本の顔を、久しぶりに拝みたいとも思っていた。
本日は、向南塾は休みである。塾生はいない。
佐々木が岡本の屋敷に入る。
岡本は稽古場の座敷で、塾生の天神机を脇にどけて待っていた。
一つだけ机が真ん中に置いてある。岡本の文机である。
佐々木は挨拶もそこそこに対坐すると、懐から生徒名簿の文を取り出した。
「机をお借り申す」
矢立てを机の端に置いた。生徒の誰もいない塾で、机の上に佐々木は名簿を広げた。
佐々木は名簿を端から端まで改めて見直した。
「岡本殿、此度は、なかなかの強者(つわもの)ぞろいのようですな」
岡本は逆さのままに、左から名簿に目を通していく。
並ぶ名前に、一人一人うなずいては目を走らせた。
岡本は微笑んだ。
「送りだした私がいうのもなんですが、にぎやかだった我が塾が、すっかり静かになって、寂しい限りです」
佐々木には、岡本の気持ちがよく分かる。
「ご心配なく。本日の初講義で『なるほどな』と思った次第でござる」
岡本は嬉しげである。
「もちろん、佐々木殿が明倫館にいるのですから、心配はしておりませぬ」
佐々木は謙遜する。
「何をおっしゃる。岡本殿の後では、ちと荷が重い」
二人は笑い合う。
佐々木は名簿に目を落とした。
「では、右からいきますかな」
引き継ぎが始まった。
佐々木は一人目を指した。
この者はどうかと、岡本を見た。
「林乙熊は、いかがでござろう」
岡本のいい方は簡潔である。
「人は良い。学足らず」
佐々木は手元の紙に、人は良い学足らずと筆を走らせる。
何事も事細かく文を認めるのは、佐々木の習慣である。
岡本は付け足した。
「まあ、相撲ならば、乙熊は誰にも負けますまい」
相撲と。また佐々木は筆で記す。
「では、次。佐久間卯吉の見立ては、いかがなもので」
岡本は頷いた。
「礼儀は良し。漢詩の才無し」
岡本の一言には無駄がない。
佐々木はどちらかというと、つい細かいことに目がいってしまう質だ。指導に迷うこともあり、熱くなり過ぎることもある。
佐々木にとっては、岡本はいつも的確な助言をしてくれるので助かる。
「卯吉は算盤でしょう。勘定方が向いておりまする」
佐々木も同感であった。
「やはり」
佐々木も、長年様々な生徒を見てきているので、生徒が幼くても一目見れば直感が働く。
「では、この者は」
佐々木は三人目をそっと指さした。
佐々木にとって、最も聞きたい生徒であった。
教場で、どうにも落ち着きのないのが、この者である。誠に騒がしいかぎり。
「桂小五郎ですか」
岡本は思わず苦笑いを浮かべた。
顎を撫でた。髭の剃り跡をさすっている。
しばらくして、断言した。
「漢詩の才有り」
佐々木が身を乗り出した。
「ほう」
岡本の目が確かなことは、佐々木のよく知るところである。
「だが、素行は悪い」
佐々木は溜息をついた。
「線香臭いということですな。して、線香仲間は」
岡本は右端を顎で指した。
「乙熊。仲が良すぎて、取っ組み合いばかりじゃ」
佐々木は、線香の煙のような線で、二人の名前を結びつけた。
「佐々木殿の腕の見せどころではござらぬか」
佐々木は筆を置いた。羽織と小袖の袖をまくった。
「いや、これは細腕でしてな」
丸太のような腕を見せた。
「この腕は、まったく見かけ倒しでして、ついでに腕の本数も足りませぬ」「それは私も同じこと。生徒たちが元気すぎて、腕が何本あっても足りませぬ」
佐々木と岡本の笑いが弾けた。
岡本は部屋の隅を指さして、肩をすくめた。
そこに度々の取っ組み合いで犠牲になった、つぶれた天神机が立てかけてあった。板が割れていたり、足が折れている。机はどれも、生徒が入塾する際に持ち込んだものである。
「風呂焚きにでも使いますかな。まったく」
岡本は困った顔をした。
佐々木は生徒たちの取っ組み合いの激しさを理解した。
――わしは岡本先生とは違う。このようなことは、明倫館では絶対に許さぬ。
ふと佐々木が心に引っかかっていることを尋ねた。
「次の殿の『親試』は、わが生徒からとなりまする。岡本先生の見立てを伺いたい」
実は今日のこれが本題であった。
明倫館の中から選抜するのだから、佐々木が決めるべきことではある。
とはいえ、佐々木は、親試にでる生徒を誰にするのか、それとなく親しい岡本の本音を聞きたかった。
「そうですな。他塾の生徒はわかりませぬが、うちの関係でいえば、やはり宇津木誠之助でしょう」
宇津木誠之助は試験をすれば最もよい。誰もが認める秀才である。
父上の教えが徹底しており、本人も真面目で素直なため講義の理解はよい。宇津木は、明倫館の教場でも向南塾出身者としては珍しく態度が静かで、礼儀は文句のつけようがない。
ただ、そんな生徒は、佐々木には物足らなかった。
先の伸びしろは見えている。
佐々木は思案顔である。
「桂小五郎はどうです。素行が改まればの話ですが」
岡本はふっと息を出した。
「仮定の話はできませんな。特にこの者は」
佐々木はまた筆を手にした。
引継ぎは日が暮れるまで続いた。
小五郎は明倫館の生活が落ち着くと、弥之助の勧めで明倫館の剣術師範内藤作兵衛の自宅に向かった。
弥之助の話では、内藤作兵衛は新陰流柳生家当流の内藤家六代目。兄の文譲より五歳ほど年下だという。
明倫館の剣術師範は、他にも柳生新陰流の師範に馬来勝平、平岡弥三兵衛、それに片山流の北川万蔵がいる。
すでに百年を超える明倫館は、建物が狭く老朽化して、三の曲輪では拡張の余地がまったくなかった。
剣槍術の稽古場は明倫館の本門のすぐ右隣りにある。古いだけでなく、生徒数に対して手狭である。
小五郎は昌景から、明倫館の移転再築が検討されていると聞いていた。
小五郎は弥之助と相談して、明倫館の稽古場より、平安(ひや)古(こ)の東側にある作兵衛の自宅に寄ることにした。
稽古場は狭い中、多くの門弟がいるので落ち着かない。小五郎は稽古場よりも、内藤作兵衛の自宅で入門のお許しを得ようと思った。
小五郎は和田家を出ると橋本川にむかった。
通りの右手に平安寺が見えてきた。
平安寺の四つ角を左に曲がり、畑の脇の細い道を行く。
畑の先に並ぶ家の二軒目に、内藤作兵衛の家があった。庭の奥が林になっている。
小五郎は内藤家の玄関に立つと、奥に声をかけた。
「桂小五郎と申します。内藤作兵衛先生は、こちらでしょうか」
玄関の奥から、ほっそりとした体つきの作兵衛が、着流しのまま、ほとんど足音も立てずに出てきた。
小五郎は弥之助の方が、よほど強そうだと思った。
作兵衛はさがり眉で、顎も細く、優しそうな顔立ちである。
ただ目には隙がなく、あまり瞬きしない視線に射すくめるような光があった。
小五郎は頭を下げた。
作兵衛は小五郎を見降ろして、軽く会釈をした。
「桂家の小五郎とはお主か。九郎兵衛殿には、昔お世話になった」
作兵衛は小五郎をじっと見据えた。
ふと笑みが走った。
「弥之助が行くようにと申したか」
「はい。先生のお名前は、かねてより弥之助から伺っておりまする」
小五郎は、作兵衛から玄関を上がる許しを得たかった。当然、座敷で挨拶をするつもりだった。弥之助と挨拶の稽古をしてきたばかりだった。
だが、作兵衛のいい方は意外であった。
「ならば、庭へまわれ」
作兵衛の声は静かだ。
弥之助と聞いただけで、作兵衛には小五郎の要件のすべてが通じているようだった。
小五郎が庭にまわると、作兵衛は二本の長さの違う竹刀を持って、座敷の濡れ縁から下りてきた。着流しのままである。
「ここで、父上と九郎兵衛殿は、よく稽古をした。私も鍛えてもらったよ」
作兵衛の目が懐かしそうに細くなった。作兵衛は濡れ縁を指さした。
「刀をそこへ置きなさい」
作兵衛に促されて、小五郎は脇差を抜いて、濡れ縁に置いた。
作兵衛は小五郎に、長い方の竹刀を渡した。
「弥之助に稽古をつけてもらっているなら、挨拶代わりに、ここで手合わせをいたそう」
小五郎は庭の真ん中に、促されるまま立った。
作兵衛は正面にいる。
「最近の門弟は、長い竹刀で稽古する者が多い。わしは好かんがな」
小五郎は、弥之助から、こうなるかもしれないと聞いていた。
実際、作兵衛の前に立ってみると、小五郎には何とも嫌な感じがあった。
作兵衛はさして体も大きくもなく肩幅も狭い。自然体で立っているのに、弥之助と違う息苦しい圧迫感があった。
小五郎は、桂家で稽古しているときに、弥之助が『撫で肩の相手にご注意を』と教えてくれたのは、作兵衛のことだと思った。
互いに礼をして、静かに青眼に構えた。
作兵衛の立ち姿は、確かに非力に見える。
豪傑とは程遠いのに、小五郎には近づくことができない。
小五郎は、作兵衛の構えた剣先が、妙に大きく見えた。
秘められた剣技がどれほどのものか、小五郎には想像もつかない。
作兵衛の剣先は何気なく小五郎に向けているのに、小五郎の中心を捉(とら)えていた。
小五郎は間合いをつめて、右に回り左に回る。
「ほう、なるほど」
作兵衛は小五郎の間合いの詰め方、外し方、足の捌きを見ているようだ。
小五郎は打ち合っていないのに汗をかき、息が苦しくなってきた。
作兵衛に攻めてくる気配はない。
だが、小五郎はどうしても踏み込めない。
小五郎は、作兵衛の剣先を払った。
竹刀同士が当たる瞬間、小五郎の竹刀は作兵衛の竹刀を素通りした。触れることもできなかった。幻を払ったように思えた。
小五郎は、それではと、竹刀を上段に構えた。
作兵衛の竹刀の剣先が、いつの間にか小五郎の喉元に向けられた。
小五郎は、とっさに作兵衛の小手を打った。
小五郎の竹刀は空を切った。
「よし」
作兵衛の一声。
間合いが外された。
作兵衛の声が庭に響いた。
「やめ」
作兵衛に導かれるように、小五郎は離れて礼をした。
作兵衛が目を細めた。
「明日より、明倫館の稽古場に来なさい。稽古は昼四つ(午前十時頃)からである」
作兵衛の顔は、別人のような親しみ深い笑顔になった。
「弥之助も、少しは上達したようだの。昔はどうしようもない力まかせだったがね」
作兵衛は小五郎ではなく、弥之助を褒(ほ)めた。
作兵衛は竹刀を収めながら、楽しそうである。
「弥之助に『まずまずである』と伝えなさい」
小五郎の入門試験は終わった。
小五郎が桂家に帰り、弥之助にこの話をすると、弥之助は手を叩いて大いに喜んだ。
「先生に、いきなり手合わせをしていただけるとは、めったにないことでござる。『まずまず』とは、これ以上ない褒め言葉。ついでに、弥之助の精進まで観ていただけるとは、なんと有り難いこと」
弥之助の喜びように、小五郎も嬉しくなった。
小五郎には、どうも作兵衛と弥之助が、小五郎を通して空中で対話しているように思えた。妙な気分であった。
小五郎は、翌日から明倫館の稽古場で、作兵衛の指導を受けるようになった。
仲間だった乙熊は北川先生に入門し、卯吉は平岡先生の門弟にと、師範は別れた。同門には河野右衛門と永田健吉がいた。馬木門下は、財満新三郎である。
小五郎だけ、明倫館の稽古場の隅で、柳生新陰流の型ばかりを稽古させられた。
小五郎が打ち合いで皆と汗を流すことはめったになかった。
型の稽古は、小五郎には退屈であった。
小五郎は桂家で、座敷で羽織を脱ぎながら、弥之助に、つい「型の稽古ばかりだよ」と愚痴ってしまった。
弥之助は膝をつき、小五郎から羽織を受け取ったまま、またしても膝を叩いて喜んだ。
「それは先生のお眼鏡(めがね)にかなったことでございます。九郎兵衛様も、あの世で、お喜びでございましょう」
弥之助は涙目になった。
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