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桂小五郎青雲伝 ―炊煙と楠― 第十八章 飛翔と転落と
『 小五郎伝 ―萩の青雲― 第十八章 飛翔と転落と 』
火山 竜一
第十八章 飛翔と転落と
小五郎がどん底に落ちて這い上がろうとしている時、大次郎は輝きを増して羽ばたこうとしていた。
小五郎は嘉永元年(一八四八年)の十六歳の時に、母お清と義理の姉であるお八重を亡くした。嘉永四年には、父昌景が亡くなる。この期間は、小五郎にとって、もがくような辛い時期であった。
大次郎はというと、嘉永元年に明倫館での後見人がなくなり、正式に教授として独立した。大次郎は講義をひたすら工夫し、分かりやすく具体的で興味深いものにするよう努めた。
出席する生徒は少しずつ増え始めた。
嘉永二年、大次郎は、六月に藩の命令で北浦一帯を海防調査した。若手兵学者として、注目されていく。
十月には、大次郎は、芳賀台で軍事演習を行っている。
同じ月に、十七歳の小五郎と佐久間卯吉は誘い合って、大次郎に兵学入門起請文を出した。この十月は入門者が特に多く、一カ月間に、なんと二十九人もの生徒が、大次郎に起請文を出している。
大次郎の門人は増え続け、百人を超えていく。
一方、大次郎は講義より海防調査と遊学で忙しくなった。
大次郎は、嘉永三年(一八五〇年)には、八月から十二月まで九州に遊学している。
嘉永四年一月、昌景が亡くなってから約二か月後の三月五日に、大次郎は江戸遊学に選抜された。
選ばれたのは十七名。
大次郎を含めた追加三名が『食客冷や飯』の扱いで、毛利慶親の江戸参勤に先行して萩を旅立った。
もはや大次郎が明倫館で講義する機会は、ほとんどなくなった。
十九歳の小五郎にとって、大次郎はたった三歳年上なのに、遥かに遠く高い存在になっていた。
小五郎は、大次郎がいなくなってから、江戸に何があるのだろうかと思う日々が続いた。
小五郎は次第に萩を狭く感じるようになった。
小五郎と武之進は思い付きで、九月に兄文譲にも相談せずに、江戸遊学の願いを政庁に出した。
数日後、文譲がお城から帰ってきた。
「小五郎、ちょっと来い」
大きな声で、文譲は和田家の二階にいる小五郎を呼びつけた。
文譲と小五郎は座敷で対座した。
文譲の顔が上気している。
「小五郎。御用所の詰所で佐伯殿から聞いた。江戸行きの願いを出したんだってな」
文譲が小五郎を睨む。
普段穏やかで、どちらかというと内気な文譲が、別人のようだった。
小五郎は意外な思いであった。
――なんで、隣家の佐伯殿が知っているのか。届け出を佐伯殿も決済するということか。
小五郎は、真っ赤になっている文譲を見た。
「私は聞いてないぞ。佐伯殿に『同じ家に住んでいるのに、文譲殿は知らないのかい』と笑われた。こんな恥ずかしい思いは初めてだ。父上が亡くなってから、家のことで大変なのに、お前は何を考えているんだ」
文譲の声は激しい。
いっこうに文譲の怒りは鎮まりそうになかった。
「佐伯殿は、『これは、だめだ』と言い切ったよ。私に、お前の願い出を見せてな」
殿中を取り仕切る奥番頭役で、人事に目を光らす直目付の佐伯が「だめ」と断言したら、関係するすべての役人も承知であろう。
絶望的であった。
小五郎は目前の畳を睨んだ。
「佐伯殿は和田家の事情をよくご承知だ。お前が明倫館も休みがちで、遊郭に出入りしていることもな。いったいお前は、何しに江戸に行くんだ。遊び半分であろうが」
まさか、隣家の佐伯が願い出を潰(つぶ)してくるとは思わなかった。
小五郎には、お城の石垣以上に、佐伯ら役人の壁が絶壁のように感じられた。
小五郎は佐伯家の方を、恨めし気にちらっと見た。
幼いころからの小五郎を知っている佐伯である。
――まずいことになった。
昌景が亡くなったあの日。
文譲も小五郎も、鼾の異変に何故気付かなかったのかと、激しく己を責めた。体に悪いと知りながら、どうして酒を止めなかったのかと。
「これでも、私は医者か」
小五郎の耳に、嘆く文譲の叫びが今も残っている。
葬儀の後で、二人して力を合わせて、和田家と桂家を支えて行こうと誓い合ってもいた。
小五郎には、文譲が怒る気持ちが、痛いほどわかる。
――だが、江戸行は別だ。兄上には、わかるまい。
小五郎は、江戸にこそ、大組士としての未来への道が開かれていると直感していた。
小五郎は、己の直感に素直に従ったにすぎない。
他意はなかった。
「桂の家に帰れ。しばらく、お前の顔は見たくない」
激高する文譲に、小五郎は頭を下げた。
小五郎は口惜しさと惨めな思いで、しばらく顔を上げることができなかった。
翌嘉永五年(一八五二年)四月。
衝撃的な情報が萩にもたらされた。
江戸に行っていた大次郎が、亡命(脱藩)したのだ。
今や罪人となり、帰国を命ぜられて萩に護送されてくるという。
明倫館は大変な騒ぎになった。各教授陣も動揺しているのが、生徒にもわかった。
教場に生徒たちが集まると、様々な憶測が飛び交った。
日が経つにつれて、具体的な情報が入ってきた。
大次郎が通行手形の発行手続きが遅れているのに、赤穂浪士討ち入りの日にこだわって先に出発したとか、他家の家臣との信義を優先したなど。
伝わってくる情報は、萩の世界しか知らない生徒たちには、理解し難いものだった。
教場の中では、あちこちで、生徒の興奮した声が飛び交った。
「赤穂浪士の討ち入りの日なんて、関係ないではないか」
「待ち合わせを約束した友に、手紙で遅れると知らせればすむことだ。御法を破るほどのことか。なぜ、過書の発行を待てなかったのかい」
「吉田先生なら、将来明倫館の学頭だって、夢ではないぞ。なんと軽はずみなことを」
などと、生徒たちの憶測や噂話は、際限がなかった。
教場の騒ぎの中で、小五郎は一人だけ目を閉じて、教場の壁に寄りかかっていた。
隣から仲間の真ん中で、河野右衛門の腹立たし気な声が聞こえた。
「己惚(うぬぼ)れたのさ。六回も親試をやって、上様にすべてを褒められたら、有頂天になるさ」
大次郎が殿に、教授として親試で何度も講義をしているのは有名であった。
財満新三郎が右衛門を制した。
「口を慎め。先生に限って、己惚れるわけがない。お前とは違う」
右衛門はむきになる。
右衛門の口は止まらない。
「何だと。新三郎。いいか、先生だって人だよ。江戸行きの前に、上様に山鹿流兵学の皆伝を出したというぞ。先生は何をしても許されると、思い上がったのさ」
林乙熊がため息をついた。
声は弱々しかった。
「学問だけでは、一個の握り飯にもならん。嫁とりも無理だよ。父上も母上も、きっと泣いておろうな」
新三郎が、年長らしく結論を出した。
「先生にしか見えないことがあるのさ。俺たちみたいな凡庸な輩(やから)には、わからんよ」
生徒たちの声は、熱っぽくなる一方だった。
ただ大次郎の決断と実行、度胸には、青年たちを高揚させる何かがあった。
佐久間卯吉が、あっと小五郎に声をかけた。
「小五郎、俺たちの兵学入門起請文はどうなるんだ。あれは、ただのちり紙になるんか」
小五郎は、はっとして目を開けた。
――確かに。
皆が、一斉に振り返った。
小五郎には、たくさんの起請文が風に飛ばされて、畳の上に散乱しているように思えた。
「わからん。ただ一つ、はっきりしているのは、先生は止まらないってことだ」
五月十二日、大次郎は萩に帰って来た。
松本村の清水口にある実家の杉家に蟄居(ちっきょ)となった。
この日、文譲が城の務めから帰って来ると、桂家の小五郎を和田家に呼んだ。
「お城で佐伯殿がいってたぞ。吉田先生は、終わりだとな」
文譲はそれしかいわなかった。
雲のない夜、小五郎は月光の中を、一人松本村に向かった。
大次郎のいる杉家は、松本川の橋を渡った先にある。
小五郎は杉家の前で周りを見回した。
闇の中で、いくつかの部屋のうち、隅の部屋の障子が行燈の明かりを映していた。
大次郎が、本でも読んでいるのであろう。
小五郎は意を決っして、障子の前の縁台に腰かけた。
「先生。桂です」
中で人の動く気配がした。
音もなく障子が開いた。
大次郎の静かな声が、小五郎を迎えた。
「入り給え。草履も中へ」
小五郎が部屋に入ると、大次郎は障子を閉めた。
大次郎の笑顔が迎えた。
「桂君も、じっとしていられないようだね」
書見台の脇の本が開いている。
小五郎は大刀を抜き、袴をはたいて膝を折った。
「恐れ入ります。先生、だれか来ておりましたか」
「井上壮太郎君だよ」
井上は、大次郎とともに江戸に遊学した一人だった。
井上は、江戸で大次郎亡命の一件に係わったため、罪を問われて江戸からもどされていると小五郎は聞いている。
井上も大次郎とともに、処分を待っている身だった。
二人は一体ここで、何を話し合っていたのだろう。
まわりには、本がうず高く積まれていた。
兵学書、史書、忠臣蔵物のいろは文庫にいたるまで、分野は多岐にわたっている。
大次郎は何冊かの本を手元に置いた。
「桂君、学びの場は、どこにでもありだ」
大次郎には、なんの陰りもない。微笑みさえ浮かべている。
小五郎はたまらず問を発した。
「先生、江戸で何があったのです。東北に何があるのです。過書(通行手形)もないのに、なぜ東北に出発したのです」
小五郎の際限のない質問に、大次郎は頷きながら己の想いを語り始めた。
「桂君。この世には今のことを考える者と、明日のことを考える者がいる」
相変わらず、唐突な大次郎である。
「自分のために生きる者と、民のために生きる者がいる」
明解な考えではあるが、小五郎には違和感があった。
「利を求める者と、忠義を貫く者がいる。さて、わが神州(日本)を憂うる者は、どれだけいるであろうか」
小五郎は複雑な家庭の中で、多くの生と死を見てきた。
右往左往してきた小五郎には、この世のすべてが、頭だけでは整理できないものであった。
小五郎は大次郎を見つめた。
「私には進む道がわかりませぬ。何をしても、これでいいのかと自問しておりまする。ただ」
大次郎はゆっくり書見台の本を閉じた。
「ただ、とは」
小五郎は続けた。
誰にも話したことがない胸の内だった。
「生き方を山に例えるのなら、山頂の大義に進む道は、四方八方無数にあるのではと」
「ほう。桂君らしいぞ。面白い例えではないか」
嬉しそうな大次郎である。
暗い部屋の中で、大次郎の声は明るく力強い。
小五郎の胸に育ちつつある考えが、芽吹いてくる。
大次郎が教場の時のように、小五郎に尋ねた。
「谷があれば、どうする」
「谷の幅と深さをはかりまする。迂回するか、谷を降りて登るのか。走って飛び越えるのは、ちと怖い」
「橋をかけるのはどうか」
「金と技術と材木の用意に、時間がかかりまする」
「では行く手に川があればどうする。桂君なら泳いで渡るか」
「冬は御免こうむります」
「やはり、橋しかないか」
「舟でしょう。川の狭いところがいいか、流れの緩やかなところがいいか、考えまする」
小五郎は話しながら考え、考えながら話している。
「ただ頂上に登れば、麓(ふもと)で見上げた時とは、大義の景色が違うかもしれませぬ」
なるほどと、大次郎は大きく頷く。
「桂君は、すでに山を登り始めているよ」
小五郎は、はっとした。
――どういう意味だろう。
「先生、山頂へは、人の歩んだ道と、道なき道があるのではないかと思いまする」
小五郎なりに頭ではなく体が納得できるように、大義への道を整理しようとした。
大次郎ははたと膝を打った。
「桂君の言葉を借りれば、今の私は、道なき道を歩んでいる。自分の道を自分で切り開くとは、そういうことではないか」
大次郎は、いつものように小五郎をまっすぐに見た。
「私なりに信義を貫いても、世の人は、私のことを色々と噂するであろう。世の人に、私のことはわかるまい。今の私が自由になったことをね。蟄居の身でも、生きている実感があるのだよ。だが、私は自分の利のためにしたことは、一切ない」
一瞬、大次郎の声が激しくなった。
「君恩に背いたことに、言い訳はせぬ。いかなる裁きも、覚悟してはおる」
大次郎は小五郎を見た。
「たとえ何回死して生まれ変わろうとも、同じ道を歩むであろう。そう見切った時に、私には悔いも迷いもなくなった。これしか、生きようもないとね」
急に大次郎の声が震えた。
「家に護送されて着いたとき、父上も母上も、私のしでかしたこと(亡命)を何も責めなかった。私を見て、ただ『よく帰ってきた』と、『体は大丈夫か』と、おっしゃるだけであった。それが」
大次郎は言葉につまった。
目を閉じた。
涙が一すじ頬を流れた。
小五郎は、自分が悔いと迷いだらけであるのが辛かった。とても先生のように、生まれ変わっても同じ道を歩むとは言い切れない。
大次郎はふと小五郎に指を一本たてた。
「山を登るとしても、相手は待ってくれん。外敵の脅威は、すぐそこまで来ている。清国がアヘンに毒されて、外敵に侵略された悲劇が、いずれ神州にも起こるであろう」
大次郎は中空を見上げた。
しみじみとした声で、小五郎に語った。
「東北への旅で、筑波山から関八州を見渡した時の思いは、一生忘れまい。澄み渡る空の下で……絶景であったよ」
大次郎は小五郎に目を移して、目を細めた。
「桂君、広い世界を見たまえ。天地宇宙に我一人、進む道を見定めることだ」
しばらくして、小五郎は真っ暗な杉家の庭に下り立った。
小五郎は大次郎に江戸遊学の願い出が、佐伯の働きなどで却下されたことを口にした。
縁側で小五郎を見送る大次郎は、まるで自分のことのように怒りを隠さなかった。
「無念だ。佐伯め、小役人の分際で、志を握り潰すとは何事か」
大次郎の声は射すようだった。
「私に、桂君を江戸に送る力があればよいのだが」
大次郎の声が震えた。
小五郎は黙礼すると、月光を頼りに風のない夜道を桂家に戻って行った。
関連リンク
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