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激辛ガパオチャーハンを食わねば|11月30日 略箪笥
低い椅子に座る。キャッシュオンで適当なロングカクテルを頼む。訳のわからないオブジェクトの隙間を埋めるようにして客が入り乱れている。
学生時代はしばしばそういう場所に通っていたので、初売りイベント会場のバー「ビキニマシーン」にはある種の懐かしさを抱かないではなかったけれど、学生時代の僕の人格と今の人格には結構な隔たりがあり、今の自分にとってはビキニマシーンという場所はやっぱり新奇でもあった。
ZINEの執筆メンバーの知人の知人、という感じで来てくださっていた方に「小説を読むことは何の役に立つのか?」と聞かれた。僕は焦ってしまって満足に答えられなかった。
もちろん、「好きだから読むのであって、役に立つから読むのではない」というのが既知の答えとしてはあって、だから小説は他の娯楽(ゲーム、漫画、YouTube…)と比べて些かも高尚なわけではないと言えば言えるわけだが、僕はその方に小説を含む冊子を売り付けようとしているところであって、そのような答えで済ませるのは無責任なように思われた。だから、役に立たないというところから出発するにしても、普段小説を読まない人に小説を読んでみたいと思わせるような何か一言がないかと考えたけど、当座には思いつかなかった。
そのように真剣に考えているのはその場にいた僕の人格である。
別の時間、別の場所で同じことを聞かれたら、別の人格が「役に立つのが偉いと思ってるんだ笑」と問い自体を否定したかもしれないという、恐怖に近い予感がある。
人格というのは不正確な表現で、言葉の使い方のモード、あるいは「辞書」とでも言うのが近い。どのような語彙を使うか、何と何を「結びついている」ものとして扱うか、そういうことの集合がその人の言葉の使い方を形成していて、でも結局は言葉の使い方がその人の考え方と見なされるわけだから、言葉の使い方と人格は見かけ上とても近しいものである。
例えば(判断を放棄していると言う意味の)「脳死」というスラングがあって、屈託なく使っている人も割と多いと思うけど、実際には深刻な状況を指す言葉なので侮蔑的なニュアンスで用いるのは抵抗があるということで使わない人も多い。
このとき、「脳死」というスラングを使う人と使わない人ってどう違うんだろうと考えると、持っている辞書が違うというのが僕としてはしっくりくる。後者の人はどこかの時点で、辞書から(スラング的用法での)「脳死」を消去したのだ。
何を言おうとしているかというと、ある人が話している内容=選んだ言葉というのは、この世の全ての言葉の中からその人が即興で選んだ言葉ではなく、あらかじめ非常に限定された辞書から選ばれた言葉であるということで、その辞書がその人の(外見上の)人格や考えの大きい部分を規定しているということだ。
もちろんその辞書への依存度合いも人によって異なるだろう。僕は会話が上手い方ではなく、似たような話題に対して似たようなことを言ってしまうと感じることが多いけど、それは辞書の中の言葉をそのまま引っ張り出していることによると思う。
それで、辞書のようなものを想定するならば、それが複数あるということも不自然ではない。例えば、辞書Aには「脳死」が載っているけど辞書Bには載っていない、とか。辞書Aでは「小説」を「当然いいもの」としているのに対して辞書Bでは「意味のないもの」としている、とか。
僕はそういう感じで辞書を複数持っていて、無意識に使い分けているような感覚がある。
みんなそうなのかどうかはわからないけど、少なくとも仕事とそれ以外、くらいでは使い分けている人が多いんじゃないだろうかと思う。どうだろうか。わからない。
極端な例を挙げれば、僕はオタク的辞書を持っていて、コンビニでアニメグッズを見たら「ぼっちちゃんかわいいね〜〜ペロペロ」などと言いかねない。言いかねないのだが、この日記を書いている今の辞書にはそのような語彙は含まれていないので、ここで無理に引っ張り出すと不協和を感じる。それどころか、そのようなオタク的欲望について平然と批判を加える用意もある。
多分、僕の問題はインスタントに辞書を作るのが割と上手い代わりにそれらの整合は特に取れていないところで、小説が嫌いな人と出会ったらその人の語彙を取り入れながら小説を貶すだろうし、小説を好きな人と出会ったらその逆のことをするだろう。Aにも反Aにも共感できるということはよくあるので嘘をついているというわけでもないのだが、同じ人に両方の僕の言説を聞かれたら信頼を失うかもしれない。
そんなだから、一貫したことを言っている人に対しては「偉いな」とよく思う。一貫というか、相手におもねらないというか、一つ(あるいは少数)の辞書を統一的に育てていっている人。それは常に辞書を書き換えるということでもあるから、自分で人生を変容させていける人ということでもある。
逆に、辞書をたくさん切り替えて使うときにはそれぞれの辞書は静的になるし、AかBかを選択して辞書に書き込むという行為から逃げることにもなる。僕はそうしていろんなことから逃げて、こうとも言えるしそうとも言えるね、みたいなことしか言えなくなってしまった。
たくさん断言しなければならない。自分を規定することから逃げてはならない。動的に判断しなければならない。変容しなければならない。
晩飯を外で食べるか、ということになってタイ・ベトナム料理屋に入った。僕は激辛ガパオチャーハンを頼んだ。現地でよく食べられているということだったから。
僕は食に関して保守的で、旨いとわかっているものばっかり食べる傾向にある。「火を焚くZINE」本誌でも登場するが、さざわさんが朝食にソルダムという未知の果物をもってきてくれて、僕はそれを微妙な顔で食べた。知らない果物は信用ならない。僕は普段朝はいちごジャムパンしか食べない。
だけど、そのような精神性が僕の変容を阻害している。飯だけならいいが、全く同じ仕組みで僕は見知らぬイベントに参加したり、知らないものを買ったり、生活習慣を変えたりするのが億劫になってしまっている。
だから、その習慣を壊そうと思って東京に引っ越してきたし、知らない本を買うし、激辛ガパオチャーハンを食う。
ガパオチャーハンは本当に辛かった。他の人にも味見してもらったがみんな口を揃えて「本当に辛い」と言っていた。本当に辛いガパオチャーハンを僕は完食した。腹が内側から熱かった。
翌日は文フリに行ったのだけど、会場で歩き回ると腹の中で激辛ガパオチャーハンが跳ねて痛かった。会場で会った奈良原さんにそのことを言うと「(自分は美味しいとわかっているものを選んでしまうけど)挑戦した略さんは偉い」と言われ、少し嬉しかった。
略箪笥
京都出身。最近東京に引っ越してきた。小松菜と豚肉を炒めたものと納豆ばっかり食べている。これからの季節は水炊きばっかり食べる予定です。
【「火を焚くZINE vol.1」発売予定】
◆2025年1月19日(日)文学フリマ京都9 @京都市勧業館みやこめっせ1F
ホームに帰るぜ! 関西方面の方、ぜひ会いにきてください!