僕がここに生まれる前のお話
生命の始まりについて考えると言う番組をテレビで見た。
海からか、陸からか、はたまた宇宙からか。
子供たちの発想と今現在わかっている科学について取り上げられていた。
命の始まり。誰も覚えていないけれど、きっと細胞の奥深くに刻まれている記憶なんだろ。だから、本当は誰でも知っている、覚えていることなのかもしれない。
物凄く衝撃的な誕生だったのか、静なものだったのか、思い出したくても出せない。けれど脈々とその誕生の過程は受け継がれている。命って深いんだ。
以前、整骨院の先生に耳を柔らかくしたらいいと言われたことがある。
耳は胎児の形なのだそうだ。だから普通は柔らかいのだけれどストレスやら何だかんだとあると耳が固くなるらしい。だから耳を揉んで柔らかくするといいらしい。
わたしは素直にお風呂の中で耳をもみながら胎児だった頃の自分を想像してみた。
湯船に浸かっていたの、ちょうど羊水の中のような気分になってしまった。
すると頭の中では走馬灯のように何やら映像が駆け足で抜けていった。それはわたしの記憶ではなく母の記憶だった。
わたしは母と仲が良くはない。
ここで書いてもいい思いはしないので書きはしないが、わたしはこのお風呂場の体験で母は可愛そうな人だと思ったのだ。そんなことを本人は思ってもいないかもしれないが、わたしはそれでこれまでの母をひとまず、許すではないけれど、受け止めることができたような気がする。
自分のものではない記憶。前世でもないけれど、見てしまった記憶。本当なのかそれともわたしの空想なのか分からないけれど、そうなんだと自分が思っているから、わたしの体験として受け止めている。
そんな出来事からしばらくして息子は生まれてきてくれた。
ある時、息子はミライノコミチから来たと教えてくれた。
そこは子供がたくさんいるんだけれどみんな独りぼっちで暮らしているらしい。
わたしの所に来たら楽しいだろうなと思ってやって来たらしい。
寂しかったのだと言っている。
お腹の中では声は聞こえるけど顔が見えないから、どんな顔かなぁと思っていたらしい。
と言う具合に、胎内記憶なのか、前世なのかをたまに思い出したように話してくれる。
自分がこの世界に存在する前にも自分としてそこに存在していた。と彼は考えているらしい。
最近、昔のわたしの写真などを見ていると
「知っているよ。僕、お腹の中から見てたからね。」と言うのだ。
自分がまだ生まれていない。
けれど今、写真で確認できる。と言うことは知っている。けれどそこに自分はいなかった。はて?そういえば僕はお母さんのお腹の中にいた。きっとそんな感じで自分に納得をさせているのだろう。
生まれる前のこと。
それは誰にも分からない。
自分のいない世界。
自分のいた世界。
わたしは幼少期も含め、過去のことはほとんど覚えていられない質で、ふと思い出してもそれが本当のことだったのか、いつのことだったのか、何かと不安になってしまう。
いろんなことがごちゃ混ぜでぼんやりとしている。
けれど、息子はなかなか記憶力がいい。
時間軸は怪しいけれど(昨日のことも、一年前もみんな、昔)、鮮明に覚えていることが多い。見たことのある絵や話し。ちょっと関係ないけれどCMとか本当によく覚えている。
昔々、僕は消防士だったから消防車とか好きなんだとまだ3歳ぐらいの時に教えてもらったことがある。
空想なのか本当に覚えているのか、それはわたしにとってはあまり関係がない。彼がここに生きていると感じていること、昔だろうが未来だろうが、しっかり自分で自分を感じられて、何か思っている、考えているということが大切なような気がしている。
自分がどこからきてどこへ行くのか。人の命の始まり、生きていること、これからきっといろいろ考えて、悩んで、時には怖くなって、それでも生きている。そんなことを噛みしめて自分の道を歩いてもらいたい。
何かの縁でわたしは彼の親となった。
その始まりの出来事をわたしは知らない。けれど、きっと細胞のどこかにその記憶が残っているのかもしれない。
そんなこと有り得ないと言ってしまえばそれまでだけれど
わたしは遥か昔のどこかの遠い記憶を持っていると信じていたい。
こうして彼が生まれる前の話をしてくれるのだから。
わたしを選んで生まれてきてくれたのだから。
ここに居るわたしと息子が感じたことがいつかの誰かの記憶になっているいるのかもしれない。
今を生きて、楽しんでみよう。
あなたにもその記憶がありますように。