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三國清三著「三流シェフ」

 本書は、日本はもとより、世界においても著名なフレンチシェフのカリスマ三國清三氏が、自身のオーナーレストラン「オテル・ドゥ・ミクニ」の閉店、そして新たなチャレンジを前に、自身の半生を振り返った書籍である。
 不遇の境遇をバネにし、不断の努力とチャレンジを経て、世界の三國に上りつめる。そして、その先には、さらに本当の自分の夢を追いかける姿があった。
 三國氏は、1954年北海道の日本海側の増毛という漁師町で、漁師を営む家の7人兄弟の3男として生を受ける。当時は、多くの家庭では、子供は高校に進学するのが当たり前になった時代。しかし三國家の子供たちは、その貧しさゆえ、中学卒業後、みな仕事に就く。
 三國少年も、中学卒業後、札幌の米屋さんの住み込みの仕事に就く。そして、そのかたわら、夜間の調理専修学校に通う。三國少年のたのしみは、米屋のお嬢さんが作ってくれる夕食。そこで初めてハンバーグを食べ、その美味しさに衝撃を受ける。そして三國少年の新な目標が決まる。当時北海道の一番のホテルであった札幌グランドホテルのコックになって、日本一のハンバーグを作る。
 しかし中卒採用はなし。学校の卒業研修のテーブルマナー研修が札幌グランドホテルで行われた時、厨房に潜り込り、調理場の責任者に直談判。なんとか採用にこぎつけたが、あつかいはパート、配属先は社員食堂の飯炊き。三國少年は、昼間の社員食堂の仕事が終わった後、ホテルの調理場の洗い物の仕事を買って出る。洗い物を続けて半年、三國少年の働きぶりを見ていた調理場の責任者の尽力で、ホテルのメインダイニングのコックとして正式採用される。
 下っ端は、食材の皮むき、洗い物といった雑用。調理場の後片付けを買って出て、調理場で、料理が上手くなりたという思いで、深夜に料理の練習。料理の腕はめきめき上達。生意気盛りである。先輩にも盾突くようになる。そんな中で、東京のホテルからきた先輩に説教される。東京の帝国ホテルには日本一のレストランがあり、そこには料理の神様がいる。その人に比べたら、井の中の蛙であること。三國氏の心に料理の神様という言葉が突き刺さる。その料理の神様とは、帝国ホテルの村上信夫総料理長であった。
 三國氏は、この時18歳。東京行きを決意する。札幌グランドホテルの総料理長に書いてもらった紹介状を手に、村上氏に、またもや直談判。しかし採用は洗い場のパートタイム。中卒では、帝国ホテルには入れないことを知る。ホテルでは調理場の手伝いをさせてもらうところまでは、こぎつけたが、その後、退社を決意。最後に自分の働いた爪痕を残したいと考えた三國氏は、帝国ホテルの18の料理店の全部の鍋磨きを志願する。鍋磨きを初めて3か月。突然村上料理長から、スイスジュネーブ大使の料理人になるよう、言い渡される。三國氏の働きぶりを見ていた村上料理長の抜擢である。
 三國氏は、スイスに渡る。この時20歳。日本で行っていたのは、調理場の下働きと、鍋磨き。このため、大使館に賓客を招く度、事前に賓客のなじみの店を調べ、その店に毎日通って、料理を完全にコピー。三國の必死の奮闘が続く。公邸では、料理人は一人しかいなかったため、毎日すべて献立を自分で考え、自分で全ての料理を作る。三國氏は、かけがえのない経験をすることとなる。
 大使館の料理人を約4年勤めた三國氏は、料理人としての腕を磨き上げるため、数々の3つ星レストランを渡り歩く。その中で、二人の天才フレディ・ジラルテ、アラン・シェルべに従事することになる。
 ジラルデは、20世紀最高のシェフの一人呼ばれた男。その調理は、あらかじめのレシピ、試作はなし。その時向き合った食材に、インスピレーションを研ぎ澄まし、即興的な料理を作る。料理への執念はすさまじく厨房の悪魔と呼ばれ、三國氏は、滅茶苦茶な要求をつねに突きつけられる。しかしこれにより三國氏は料理人として大きく成長することになる。
 アラン・シャペルはジラルデとは対照的で物静か。その料理哲学は、料理というものは、土地に根ざしたものでなければならない。地域の食材を使い、地域の人々のために料理を作る。今でこそ、地産地消との言葉があるが、当時は革新的。その後のフランス料理の大きな流れを作ることになった。その当時の三國氏は、数々の3つ星レストランを渡りあるき、自分の技術に大きな自身を持っていた。そんな三國氏が料理を盛りつけた皿を見て、シャペルは、”洗練されていない”と指摘する。三國氏の自信は崩壊する。しかし、この出来事により、三國氏は、自分の進むべき道を見つける。

ぼくはあの料理を、アラン・シャペルのレシピで作った。彼の哲学に従って、彼の料理を作った。
ぼく自身の心で、ぼく自身の味覚や好みで、食材と向き合っていたわけじゃない。フランス人になったつもりで、フランス人のように食材を見ていた。フランス人の真似をして、フランス料理を作っていた。
ぼくがほんとうに好きなもの、心から旨いと思うもの。それは親父の刺し網にかかったアワビやウニや甘エビだ。浜で拾ったホヤだ。熱い味噌汁に、炊き立てのご飯、醤油をつけた刺身….。
そういうもの全部を封印して、ぼくじゃない誰かになりすまして、ただの見せかけだけの料理を作っていた。(中略)
いうなれば、天才の料理を上手に真似た優等生の料理だ。うわべはよくできていても魂が抜けていた。(中略)
ばくは日本人として、フランス料理を作る。
増毛で生まれ、北海道の風土に育まれた日本人として、ぼくにしか作れないフランス料理を作る。

三國清三著「三流シェフ」より

 三國氏は、日本に帰国し、自身の店「オテル・ドゥ・ミクニ」を開店する。開店して半年は、赤字続き潰れてもおかしくなかった。しかし、三國氏は、料理本の出版、TV番組で特集を契機に、瞬く間に有名となり、お店も予約の取れない有名店になる。三國氏は、三國氏にしか作れないフランス料理を追求する。日本の食材や食文化を取り入れ、フランス料理の可能性を広げ、その名声は世界に広がる。
 しかし、三國氏に取っても、料理人のステイタスと考えていた”ミシュランの星”を受けることはなかった。ミシュランの星を受けるには、人気、味に加え、その店独自の革新性を求められる。しかし、三國氏は、事業の拡大に伴い、若い料理人を育てる必要性、素材を生かした料理を追求する事に興味、関心が移っていた。ミシュランの星をとるための、革新的な料理は、彼にとって過去のものとなっていた。
 事業の成功、フランス政府からの最高勲章の受賞と栄光に包まれた彼だが、若いときから、願い続けた星をとれなかったことが、三國氏に大きな決断と新たなチャレンジへ導く。
 「オテル・ドゥ・ミクニ」の閉店と、もう一度、自分の身一つで料理と向き合う決断である。新しい店の名前は「三國」。席はカウンターのみの八席。料理は自分一人で作る。お客さんと差し向かいで、自分のために料理を作る。新しいチャレンジに向けた三國氏の言葉である。

 料理はぼくの人生を切り開いてくれた。だけど、それだけじゃなく、料理は深く追求する価値のある仕事だ。三年後にぼくは七十歳になる。そのときに、ぼくの新しい店「三國」を開店させる。今度こそ、ぼくはぼくのために料理をする。

三國清三著「三流シェフ」

 私は、三國氏の過酷な生い立ちを物ともせず、自分の前に立ちはだかった壁を、不断の努力で突き破り、料理人という職業の価値を極めた生き方に、感動を覚えた。そして、七十歳を前にして、今なお、チャレンジし続ける姿は、人々に勇気を与えるだろう。ここには紹介しきれなかった数々のエピソードも含め、ぜひ本書を手に取り、一読することをお勧めする。
 最後に、三國氏が、一節だけ、人生訓を述べた言葉を紹介する。

もしなにかやりたいことがあって、どうしてもそれが出来なかったら、その世界の鍋を探してみることだ。なんの保障もできないけれど、もしかしたらなにかのとっかかりは掴めるかもしれない。

三國清三著「三流シェフ」より

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