『モネ 睡蓮のとき』鑑賞。(疲れた)
国立西洋美術館に着いたら見たことも無い行列ぶりで、これも昨今の円安の影響なのかとびっくりしたけど、帰ってから木山捷平のエッセイ『行列の尻尾』を読み返したら昔の行列のほうが凄かった。
並んでるのはグッズショップの待機列とチケットを買うための行列だったので、オンラインで事前にチケットを買ってあった私は待機時間無しで入館できた。
睡蓮・そのほか
展示室の中は押すな押すなの満員電車というほどではなく、その一歩手前くらいの混み具合。
一部を除けばだいたいの人はマナーが良く、どの絵もいちおう全体を見る事はできた。
でも「見える」ことと、「味わえる」ことは別なんだ、と思い知った。
群衆に揉まれながら互いに気を遣って場所をせわしなく譲り合い、人の後ろ頭をよけながら絵を覗き込む…ということを繰り返していると、絵と自分の心との間に常にかなりノイズを感じながら鑑賞することになった。
騒がしい場所で声を張り上げながら会話をしているみたいで、疲れた。
そんな環境でも、やっぱり《睡蓮》は綺麗だった。
先日神代植物公園でスイレンをたくさん見てきたばかりなので、「うん、スイレンって、こういう光の貯めかた・透けかたするよね」と、モネの描写の確かさに驚いた。
順路を進んでいくと、絵がだんだんぐじゃぐじゃになってきた。白内障のせいらしい。
私はド近眼なのだけど、眼鏡をかけて見るよりも、外して裸眼で見るほうが何が描いてあるのか分かる絵がこのへんになると増えてきた。
眼鏡をかけて見るとジャクソン・ポロックみたいな前衛画にしか見えなくても、裸眼で見ると、紅葉と橋と、水に映った橋が見える。
青っぽい煙だらけの空間にごにゃごにゃと何かが描いてある…という絵も、裸眼で見ると、夕方の光に照らされている、藤の葉と花の房が鮮やかな色彩で見える。
一見すると抽象画のようだけど、ちゃんと風景を見て描いた絵なんだと分かった。
さらに順路を進むと、色すらおかしくなってきた。
モネ展を見に行くと決めて美術館まで来たとき、私は(綺麗な絵でしっぽり癒やされよう)というつもりだった。その思惑が、第4室できっぱり裏切られた。
第4室の最後の方の赤黒い絵の群れは、私にはただ怖かった。
喉を壊した人が無理に歌っているのを聞かされているような、やるせなさ、しんどさばかりが迫ってきた。
最後まで見終わって展示室を出たとき、ぐったり疲れていた。混んでいたせいばかりじゃなく、絵に疲れた。
時系列に沿って並べる、というのは分かりやすいし正統的な展示だとは思うものの、できれば最後のほうにあんまり怖い絵ばかり集めないでほしかった。最後にしょんぼりしてしまった。
科博
疲れすぎてしまったので、いったん科博に移動してご飯を食べた。
それから戻ってきて、常設展を見た。
常設のモネ
常設展のモネは誰にも囲まれておらず、ゆっくり静かに鑑賞できた。
後期の赤黒い絵や赤黄色い絵でつらい気持ちになったあとだったから、同じモネが描いた穏やかな絵にホッとした。
でも後期のモネはこの、かつての自分が描いた絵を自分で見てホッとする、ということすらできなくなっていたんだ、と思うと、やっぱりつらくなる。
どういう生涯を送ったのか、全然知らない人の絵は気楽に見られて良かった。知れば知ったでより好きになることもあるけども。
《フギット・アモール(去りゆく愛)》
私が密かに「ストーカーの彫刻」と呼んでいるロダンの《フギット・アモール(去りゆく愛)》の場所が変わっていた。女の人の胸にすごい体勢でしがみついている男の人の像。
以前は中庭に面した部屋にあったのが、
窓の無い部屋に移動していた。
あそこからこの部屋まで、しがみついたまま引きずられてきたみたいでちょっと笑った。
面白そうなミニ企画展も気になったけれど、そろそろ帰る時間だったので今回はさらっと見ただけで済ませた。
来月はにわ展を見に行くつもりなので、そのときにまた改めて。
『モネ 睡蓮のとき』展で食らってしまったダメージを、科博がある程度まで回復させてくれて、西美の常設展が癒やしてくれた一日だった。