「私は映画を観た後になんにも言いたくないのです」言語観の違い・日本語のもつ曖昧さ
先日アメリカ人の友達とある映画について話していたとき、思うことがあった。
彼女とはよく映画の話をするのだが、彼女は映画を観て感じたことをいつも端から端まで言葉にして私に伝えてくれて「カオリはどう思った?」とそれに対する私の意見も求める。
彼女の意見はいつもハッキリしていて、こんなにハッキリと言葉に落とし込めるのはすごいなと、意見を言うのが苦手な日本人的私は思う。「ここは主人公の悲しさが上手く表現されててよかった」「あのシーンはなんでああいう風に撮られているかわからない、私だったらこうする」「この映画のテーマは〇〇で・・・」
こっちの人は、映画のような個人の解釈の入る議論であってもかなり強く断言する口調で話す。
日本の英語教育は、圧倒的に形容詞に弱いと思う。
ビジネスやアカデミックなシーンには使える英語かもしれないが、じゃあこの絵画をみて何を感じますか?これはどんな雰囲気の曲ですか?みたいな質問にはなかなか太刀打ちできない気がする。自分の感情や感覚をアウトプットする練習を積まされていないし、抽象概念についてのボキャブラリーが極端に少ないから言葉にしてもなんかチープな感じになってしまう。
私もこっちで映画を勉強するにあたって、英語でちゃんと自分の感情を言語化することの重要性を痛感した。ネイティブの言い回しを盗み、映画のレビューやインタビューを読みまくった。「ちゃんと言葉にして意見を言えなければ、観ていないのと同じ。存在していないのと同じ」と言われているような気がするから。
でも同時にすごく違和感を感じることも多い。
なんだろう、上手く言葉に落とし込めば落とし込むほど、それは私の感じていたものとは違うものになってゆくのだ。
これは英語が自分の母語でないというのも確かにあるけれど、それ以上に英語という言語の論理性に起因すると思う。英語を使えるようになればなるほど、私は日本語のもつ曖昧さを愛するようになっていった。
もちろんどっちが良い悪いの話ではなく、私は日本語の曖昧さに存在する「すき間」が好きなんだなぁと自分の嗜好を再確認したということ。
英語にはだいたい主語があって、動詞の時制も厳格で、名詞には数が表されている。日本語はそのへんテキトーだよね。日本人は主語や時制やものの数を意識しながら喋る習慣がないから、慣れないうちは英語を話すときに変に頭を使う。男性名詞女性名詞なんてある言語はもっと大変だよなぁと思う。(諦めました)
日本の文学作品なんかも、英訳されたものを読むとかなり違った印象を受ける。もちろん英文学にもいろんな文体があって楽しいんだけれど、作品の個性という点において日本語の多様すぎる文体が担う価値は大きい。
この間、大好きな是枝裕和監督の「万引き家族」を英語字幕で観なおしてみた。
それで確信に変わった。
ああゆう含みのある良質な日本語やニッポンの日常にあるなんでもない会話が多く使われている映画は、英語に訳されるとぜんっぜんその良さが伝わらないのだ。当たり前だけどあの絶妙なダイアログのニュアンスは英語には変換されない。ああああどんどん削ぎ落とされていく・・・悔しい!けど、悔しいほど私はニッポン語が大好きだ!!!と思った。ニッポン語が分かってよかった!!!
言葉にしようしてそれでも言葉に出来ずに残るニュアンスを、日本語の曖昧さはちゃあんと乗せていってくれるのだ。ハッキリと論理的に築かれていない言葉たちのすき間に、それを発する人の言語観や価値観が透けて見える。想像する余地を、相手を慮る空間を与えてくれる。
言葉そのものよりも「言葉にされると失われる何か」の力を私は信じているのだと思う。それによって作品や人と通じ合える瞬間の喜びが、私を映画や文学の世界へと引きずりこんだような気がしてならない。
「じゃあ日本語は曖昧すぎて勘違いとかすれ違いが多いんじゃない?ハッキリと意見を伝えられないじゃん!」とアメリカ人の友達は言う。
うんそのとおりだよ。仕事をしたり、何か議論をしたりするときはやっぱり英語の方が早いし楽だ。私も、英語を喋っているときはすごく論理的に物事を考えていて、それをどう効率よく伝えられるかということを意識する。声も大きくなるし、発言も増える。性格がちょっと変わる。
なぜなら(少なくとも私にとって)英語は「自分を主張できる」言語だから。”I think…" "I want…" そして会話の相手からは相手の主張”But I think..."(たまにすっごく疲れる)
でも日本語は、自分と他者の境界線がもっと曖昧で、その間にある何かを共に育んでいくような喜びがある。だっていちいち「私は」とか「君は」とか言わなくていいんだもん。
映画を観た後に自分の気持ちの全部を言葉にしなくても、私はちゃんと存在できるんだもん。
日本人は言語以外のシグナルにとっても敏感だ。ぼんやりと無言のまま映画館を出て、その無言や歩幅や表情や雑音の全てで私たちは言葉にならない会話をする。エンドロールに切り替わった瞬間あーだこーだ口を開きがちなアメリカ人にはない、役に立たないかもしれないけど豊かな能力だと思う。
だからといって「言葉にできない美学」を振りかざして言語化する努力を放棄してはいけないのだけれど、言葉にすることを信じすぎて、無理くりひねり出された言葉たちや言葉にできない自分にもういちいち傷つかなくていいんだな、と思うようになった。
言葉に頼りすぎていると、私の中から言葉は消えてゆくから。
いつだってちょっとずつ曖昧で、言葉足らずで、時には意味のない言葉が余って、、、文字にしたらいったい何を交換しあってるんだろうというようなやりとりをしながら、私たちは言葉にならない雑多なものを伝え合う。そこに日本語の豊かさをみる。
だから私が日本語を使う・日本語で書き続ける理由は「自分の中にある言葉にできない何かを発見するため」だと思う。
言葉にしようと尽くして尽くして、その気が遠くなるような作業の中で淘汰されて残るものを、私はこっそりと愛でる。
そこに言葉はいらない。
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