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名も無き人の、いまは無き家族が、どのようにして散っていったのか、そして一粒の希望の光 #創作大賞2024


私は   気づいたら   笹舟に乗っていつの間にかここまで流れ着いていた
笹舟から空を見上げる陽の光と空に飛ぶ蜉蝣たちをぼんやりと眺めていた
私はこれからどこへ向かっているんだろう どこへ行こうとしてるんだろう

2023年の6月におじいちゃんが亡くなった。
それと共に実家の家族の絆もなくなった。
絆は父が亡くなった時に少しずつ綻びはじめていた。
おじいちゃんが亡くなるその日までもその綻びを私は食い止めることはできなかった。


名もなき人の、今は無き家族が、どのようにして散っていったのかというのを記したいと思った

これを私は一粒の光にしたい

そのためここに記す

未だ絶望の中、私はどこへ向かおうとしているのだろう

答えは私のみぞ知る でも未だ暗闇をずっと歩く 一粒の光はどこで見つかるのか 見つからないのか それさえもわからない



年の頃は3つか4つばかりであろうか。
雨がシトシトと降っていた。
私は店の中から外を眺めていた。
おそらく祖母が言ったのだと思う。
私がおじいちゃんはどこにいるのかと聞いたのだろうか
「おじいちゃんは会議に行っているよ。」
私は、おじいちゃん傘持って行ったのかな。傘、公民館に届けなくちゃ。と思った記憶は鮮明に残っている。
3、4歳の頭の中で会議と言えば公民館かと思ったらしい。
自分の傘と大人用の傘を持って、誰にも行き先を告げずに自宅の一階にある店の自動ドアを出た。
公民館に行ったけど、おじいちゃんの姿はなかった。
公民館の受付の人に、ここで会議はやっていないですか?と聞いたら、受付の人は首を傾げていた。
おじいちゃんどこにいるんだろう。
今思えば雨模様の水城公園は淡いモネの絵のような水色のような青色のような紫のような色をしていてそこに薄く灰色のような色を重ねた色だった。
水城公園の池にはアーチがかった橋が掛かっていて、傘を持ちながら道路越しにその灰色の景色を見つめていた。
その橋がある向こう側へ行こうと思って目の前の道路を渡った時、右耳の方でキーッと急ブレーキの音がした。
私の横で起きたことだった。
シルバーのセダン型の乗用車が急停車していて、眼鏡を掛けた白髪の70代くらいのおじさんが「馬鹿野郎」と言って窓から顔を出した。トトロでさつきがめいを探している時にバイクを急停車させた時に男の人から言われたあの感じ。アニメとかドラマとかみたいな映像が私の記憶に残っている。
横には奥さんと思われる女性が乗っていて、おじさんはすごく怒っていて怒鳴っていた。おじさんが私に気づいて急ブレーキをかけてくれたおかげで私の命は助かった。
そして今年37歳になる。私はその時なぜ助かったのか。なんで生きることになったのか。

そこからどうやって帰ったのかは全く記憶がない。
勝手に外へ出掛けたのだが、怒られた記憶もない。私が、家からいなくなったことを母やおばあちゃんは気づいていたんだろうか。ただおじいちゃんはもう家に戻ってきていた。

あの時の私はおじいちゃんのことがなんで心配になって迎えに行ったのだろうか。
おじいちゃんのことが私は好きだったんだろうか。
本当はおじいちゃんは優しかったのかな。
おじいちゃんから滲み出る優しさを3歳の頃のまだ純粋無垢であるはずの私は感じ取れていたのだろうか。
いつの間にかおじいちゃんのことをちょっとずつ誤解していた。歳を重ねるにつれて。そのおじいちゃんへのちょっとずつの誤解は、気づけば取り返しのつかない誤解となって存在するようになっていて、それが私にとってのおじいちゃんになってしまっていた。

私は商店を営む祖父母と両親の元に生まれた。
実家は100年以上続く米穀店を営んでいた。
おじいちゃんは次男だったけど、おそらく何か訳があって家業の跡を取り、90歳の亡くなるその日まで家業を全うした。毎日の生活リズムを大切にして一日も休むことなくペースを守りながら働き続けた。
おじいちゃんは日曜日に床屋に行く以外は殆ど外出しなかった。呑みに行ったり何か趣味を楽しむなんて姿は私の記憶の中にはない。とにかくずっと仕事をしている。そんな人だった。
夕食後に孫たちが2階に上がって全体が落ち着いてから一日の帳簿をして、風呂に入って寝る。店があるから、店と家を留守にするのが心配で留守にできないからと言って私の結婚式にも来なかった。基本的に冠婚葬祭にも参加しない。私の母の父親が亡くなった時も同じ県内にある母の実家へ葬儀に行ったり線香をたてに行くということもなかった。流石に自分の妻である私の祖母と息子である私の父が亡くなった時は葬儀にはいたけれど、おばあちゃんが亡くなった時も父が亡くなった時もずっとお店を開けていた。斎場には行かなきゃいけないから、その時間だけ信頼できる近所の友人に留守番を頼んで、帰ってきたらいつも通り店をやっていた。

そんなおじいちゃんの姿を見て、家族も周りの親戚もおじいちゃんは変わっていると言った。仕事が大好きで、仕事が命で、周りの人のことを考えないで構わず店を開ける。
そしてそれを聞いて、私もそうなんだと思い込んでいた。

 私の家は一階がお店になっていて、その上に住まいがあった。お店の奥には座敷の茶の間があって、朝食以外はそこで家族全員で昼食と夕飯を食べていた。おじいちゃんは毎日、夕方になると精米の仕事を終えて、17時半くらいからその座敷に座って、テレビをつけて晩酌しながら夕飯を待つ。私の母はそんな姿を見かけると、もう座って待っているよと言って嫌がっていた。準備を早くしなければというプレッシャーを感じていたのだとは思う。
 おじいちゃんは毎晩、必ず近所の酒屋さんからケース買している麒麟の瓶ビールを1本空けていた。栓抜きでビール瓶の蓋を開けると、必ずシャボン玉のようなものが注ぎ口のところにできる。そのシャボン玉のようなものを人さし指で割りに行くのが小さい頃の私の役目だった。
夕方には晩酌の時間に合わせようと母は2階のキッチンで晩御飯の支度をする。おばあちゃんも1階の茶の間の奥の台所でおじいちゃんのおかずやみんなが食べるおかずや味噌汁を作る。
365日休みなく店を開け続けるおじいちゃんが座敷に座る時、必ず店からよく見える上座に座っていた。自分が晩酌している時でもお客さんが店に入ってきたら必ず急いで飛んで店に出ていく。ぶっきら棒な性格のおじいちゃんだったけど、お客さんの前ではいつも笑顔で愛想を言い対応していた。店のシャッターを閉めても配達の依頼の電話が掛かってくると、たとえ晩酌終わりでも誰かしらに車で乗せてもらって必ず配達に行った。私の両親が同行するのが難しい時は、父の弟夫婦に電話してお願いすることもあった。そして運転を任されることになった大人たちは、もう時間外なのにと言って必ず嫌な顔をした。
 おじいちゃんは私が小さい頃は巨人ファンでテレビで夕飯時にプロ野球が放送される時には必ずといっていいほど巨人戦のチャンネルをつけていた。巨人が負けそうになるとめちゃめちゃ怒っていて、母に早く食べて2階に行きなさいと催促されるくらい機嫌が悪くなっていたことがよくあった。
時代劇も好きでよく観ていた。ご飯を食べた後によく寝転がりながら水戸黄門とか東山の金さんとか桃太郎侍とかを観ていた。私もおじいちゃんが座る向かい側に座って一緒に観ていたこともあった。
それから毎週日曜日の昼は必ずNHKののど自慢を観ていたし、夕方にはおじいちゃんが笑点を観る向かい側に座って私も笑点や相撲を観ていた。私が笑点で一番好きだったのは桂歌丸師匠だった。なんでかというと、おじいちゃんに似ていたから。おじいちゃんははげていたし細くて、どこか少し歌丸師匠に似ていた。ふり返ってみるとおじいちゃんと一緒に過ごしていた時間は意外とあったんだということに気づく。そこには祖父母と同居している家族の風景がおそらく存在していたのだと思う。

 記憶に残っているのは、夕食の時に私たち3兄弟が煩くしていると、何かの理由で機嫌が悪い時のお酒が入ったおじいちゃんは「うるせえ」と乱暴な言葉遣いをしていたということ。茶の間でのおじいちゃんがその言葉を言い放つ風景を思い出す。おじいちゃんがなんでよく怒っているかも私はわからなかったし理由を知ろうとも思わなかった。何を理由に機嫌が悪いのかということよりも、そういう怒りっぽい人なのだと思っていた。
おじいちゃんが怒ると母は嫌な顔をしていた。おばあちゃんもたまにおじいちゃんがいないところで母に愚痴をこぼしていた。
 そんなこともあるけれど、私たちは毎日ごく普通にご飯やおやつが食べられるということが当たり前だった。それが当たり前になっていて、毎日に平和に生活させてもらっていることに感謝するという考えが一切なかった。それに家計が苦しそうだと感じたことは一度もなかった。
夕飯に、母が作るハンバーグは大皿に家族分以上たくさん盛られていた。それを弟と競争して、お茶碗の上にたくさん確保して、何個食べても別に誰にも怒られなかったし、ご飯はいつも食べ放題だった。

生活することに対して、危機感を持つこともなかった。おじいちゃん以外の全員が完全に平和ボケしていた。

 夜になると父は同級生と一緒に馴染みの飲み屋や食事処に顔を出す。帰ってくる時間は深夜。そこからまたお酒を飲むこともある。たまに嫌なことがあったら荒れる。弟たちが小学生になると父はPTA活動にも力を入れた。会議やそれを理由にした飲み会も多々あった。いつの間にかPTA会長をやったり、日中は小学校の朝の会に出向きボランティアで子供達に本の読み聞かせをするようになっていた。父は学校の先生になるのが夢だったので、そういった活動をする事が生き甲斐になっていたのだと思う。
 母は夜になるとママさんバレーに行ったり母もPTA活動に勤しんでいた。花道とかを習いに行っていた時期もあったと思う。帰ってくると、玄関のドアの鍵以外でチェーンをかけられてしまう事があって、よく私がチェーンを開けていた。
おじいちゃんは夜、母が出掛けているのを知っているのに、わざとチェーンを閉める事がよくあった。
おじいちゃんは夜な夜な家を開ける息子と嫁が気に入らなかった。でも自分の息子は家業を継いでいるから息子を厳しく注意するということはなかった。
私はおじいちゃんがチェーンを閉めることが本当に嫌だった。チェーンを閉められた母が可哀想だと思った。それについてずっと愚痴を言う母もいた。おじいちゃんとおばあちゃんにバレないように私はこっそり足音をたてないように一階へ降りて行って静かにチェーンを開ける。そういう行為をすることも本当は嫌だった。
そういう出来事があっても誰も変わろうとしなくて、ずっとその繰り返しをしていた。

そういう事が何度も何度もあった。お互いを理解しようと歩み寄ろうとすることがなく、ずっとただただ目の前の道を歩いていた。
この家には相手の気持ちを考えるとか相手を慮るという考えが存在しなかった。

おじいちゃんとおばあちゃんは戦争を経験している。私は戦争を経験していないけれど、小学校で戦争のことについて勉強する時間があって、戦争についてとても興味深く話を食い入るように聞いた記憶があるが、祖父母が経験したことを想像しただけでも、今の日本は戦争があった時代と比べ物にならないくらいとても平和なんだろうなと思う。急に爆弾が落ちてはこない世界だ。
国のために戦争をする。戦争を肯定する。表向きは。家族を犠牲にしてまで。
そんな経験をしてきたおじいちゃんにとって、私たちの平和ボケした行為や考え方や振る舞いはきっと目に余っていたのだろうと思う。
今の私が、おじいちゃんだったら、戦争というものを経験することなく平和に暮らせるのだから、爆弾は落ちて来ないのだから、全員が家族のことをしっかり考えてほしい協力してほしいと思うと今は思う。自分のやりたいことを優先するのではなく、平和だからこそもっと考えてくれないか と、思っていたんじゃないかなとか今では思う。おじいちゃんと暮らしていた時はそんなこと気づけなかったけれど。


私の両親からの視点としては、両親たちはきっともっと自由が欲しかったのだと思う。
親に干渉される
他人は自分たちだけの家に住んで自由にやっているのに。。。
その窮屈さを感じていたのだと思う。
この平和な時代に生まれてそれを当たり前に慣れていたのだから。


この2世帯の同居生活はおばあちゃんの弟が強く勧めたらしい。おばあちゃんの弟は姉思いの優しい人だった。よく家に寄って、私にも優しい声を掛けてくれた。
そんな優しいおじさんの話を父は聞いて決めたという。父は自分の両親のために、教師になる道を諦め、家業を継いだ。両親のために、同居することを選んだ。自分が我慢をしているのだからと、仕事以外の時間に自由さを求めていた。けれど父は自分の両親から自立しようとか羽ばたこうとは思っていなかったように私の目には映っていた。自分のやりたかったことを諦めた父は用意された道をそのままただただ歩いていたように私の目には映っていた。そして自分は我慢しているからと、自分の好きなことを赴くままにたくさんやった。王様のように。
家のお金はおじいちゃんが全て管理していた。何をするにも大元のお金はおじいちゃんから出ていた。何かあればみんながおじいちゃんを頼った。王様はおじいちゃんを頼りにしていた。
それは一緒に暮らす私たちだけでなく、父の弟の家族や弟の奥さんの実家のご両親もそうだった。
みんながおじいちゃんにぶら下がって生きていた。
みんなにぶら下がられたおじいちゃんは2つの腕で90歳まで堪えた。


でもみんなが
先ほど記したようにずっと店と仕事から離れることはないおじいちゃんのことを周りの家族や叔父一家は、おじいちゃんは仕事が大好き。仕事が命。米屋が第一優先で米屋のためなら人のことはどうでもよい。米屋が一番。おじいちゃんは変わっているみたいな言い方をしていた。
おじいちゃんが死んでもみんな気づいていない。仕事が生き甲斐なんていう。生き甲斐とはまた違うものだったんじゃないのかなとか思う。


私も自分の実家を出るまでおじいちゃんはそういう人なのかと思い込んでいた。
でも果たして本当にそうだったのだろうか。
おじいちゃんの本当の心の中はどうだったんだろうか。
人が好き勝手に言ってるようなことを実際思っていたんだろうか。
そんな風に思っていたんだろうか。
私もいつの間にか自分と家族と親戚たちで勝手に作り上げてしまったおじいちゃん像を信じ込んで道を歩いて来た。
今となってはそれは虚像でしかなかったのかもしれない。
誰かがなんの気なしに放った言葉たちが、大きく捉えられてその人の本質が歪められてしまった。おじいちゃんの現実にやっている行動を見て判断するということが、私はできていなかった。
でももうおじいちゃんは死んじゃった。誤解の解けないまま、おじいちゃんは一生懸命みんなのために生きて死んだ。

おじいちゃんは、おばあちゃんが膵臓癌で先に死んでしまった。
その何年か後に自分の息子である私の父も肝臓癌で先に死んでしまった。父の命日はおばあちゃんと同じ日だった。
きっと心の底で悲しい思いをしたであろうおじいちゃんは、私たちの前では決して涙を流すことはなかった。
おばあちゃんとお別れして、自分より先に逝ってしまった息子を看取ったおじいちゃんはどんな気持ちだったんだろう。

 おじいちゃんの精米の腕はすごかったらしい。それは私のすぐ下の弟が教えてくれた。その腕一つで自分の息子たちと私たち孫3人ともを大学まで出してくれた。
私たちが暮らしていた家は、母がお嫁に来る前に建てたそうだ。私が3つくらいの時には、暮らしていた家の前の道路を挟んだ向こう側に、木の平屋の小さなボロボロの古屋が建っていた。その古屋がおじいちゃんとおばあちゃんと父と父の弟の以前の住居だったそうで、父が言っていたのは裸電球で生活していて、貧乏だったらしい。
おじいちゃんは戦後にその場所でゼロからスタートしていたのだと思う。その何十年か経った後にボロボロの古屋の向かいに建てた新しい家は当時その周辺では一番大きな建物だった。新しく建てた店兼自宅には米を運ぶためのエレベーターも設置されていた。そんな新しい家に住みながらも、おじいちゃんはまだ着られるけどボロボロの肌着やステテコを着て、その上にはたくさん経験を刻んできたものが染みている着込んだシャツやズボンを着ていた。お金持ちになってもおじいちゃん自身は変わらなくて、慎ましやかな堅実な生活を送っていた。
おじいちゃんはタバコを吸っていたけど、ある日突然吸わなくなった。おじいちゃんに何故かと尋ねたら、おじいちゃんはこう答えた。
「〇〇さんちがタバコ屋辞めたから。(道の向かいにある近所のタバコ屋さん)付き合いで買ってたから吸っていたんだよ。他のところで買ってまで吸わないよ。」私は驚いた。世の中で、煙草がやめたくてもやめれない人がたくさんいる中で、おじいちゃんは長年、煙草をずっと吸っていたのにそんな理由でやめれるんだと。おじいちゃんが煙草を吸っていたのは人のためだったんだと知った。そんなおじいちゃんだった。おじいちゃんは一緒に暮らす家族全員の年金や国保や住民税を払い、自分の息子である次男の家やそのお嫁さんの親の家が建つ土地の固定資産税も死ぬまではおじいちゃんが払い続けていた。父が亡くなって、父が米屋でやっていた仕事を誰が代わりにやるかという問題が出てきた時も、家族全員が他人事のように考えていた。父が亡くなる前に相続のことで手を打つため、父は私の弟たちをおじいちゃんの養子にしていた。でも私たち家族は自分たちで背負って行くことと考えずに、おじいちゃんが私の弟や自分の次男に給料を出して米屋の仕事をさせて米屋をなんとか継続させていた。みんなこれからのことを自分で考えていこうという気はなくておじいちゃんが自分の懐から切り崩すお金を当てにした。おじいちゃんが何か要望を出すと、みんな影でおじいちゃんはわがままだと言っていて好き勝手言っていた。おじいちゃんの気持ちというものを考えたこともなかったし、誠心誠意、おじいちゃんのためにと思って行動していたかと思うとそんなことできているわけがなかった。
私たちはおじいちゃんが一から一生懸命築いてくれた平和な世界の中で平和ボケしてしまって、自分自身で気づくことができなかった。私ももちろん同罪だった。
一つ一つのおじいちゃんの行動の意味を理解しよう耳を傾けようなんて思いは微塵も思い浮かばなかった。
その一つ一つがちょっとの誤解となって
それが積もり積もって目に見えない間違えた解釈となって、誤解と勝手に作られたおじいちゃん像が私の中にいつの間にか出来上がっていた。そしてそれは私以外の他の家族も同じような認識でいたようだった。だから私はそのおじいちゃん像に疑問を何一つ持たなかった。
おじいちゃんが怒ると怖かったし嫌だったけど、戦争を経験して生き抜くことに必死に駆け抜けた人にとってはちょっとの乱暴な言葉遣いなんてなんでもなかったんじゃないか。だって戦時中も戦後も生きていくことに必死だったんだろうから。考えたら戦争するよりそんなの比べる値にないくらい遠く遥かに遥かにマシだ。

おじいちゃんが死んじゃってから、その後、父がもうすでにいなくなってしまった私たち兄弟は叔父夫婦と相続のことに関して揉めることとなる。
小さい頃、たかいたかいをしてくれたそんな優しい叔父はいつの間にか消えていた。
表向き、叔父夫婦は私にはまだ優しかった。でも弟は罵倒されて、精神的に参ったと言っていた。私の悪口も言っていたと聞いた。誰を信じていいのかよくわからなくなった。叔父夫婦の優しい顔は能面なのか。。。
これまで色々な事があったので、弟や母のことも信じられなくなっていた。

お互いに助け合おうなんて1ミリも思っていないそんな家族と親戚がいた。

私の家は平和ボケしていたけど、真の意味での平和はなかった。
私は小さい頃から家族同士が揉めたり家族同士や親戚の悪口を聞くのは嫌だった。
みんなで仲良くしたいが願いだった。
また再び、争いごとが起こるような気がした。
思っていたことを曝け出して、まずはお互いの認識を確かめ合ってから、違うところがあれば訂正しあって、お互いが良い方向に向かえるように仲良く助け合っていけたらと思った。
そんな思ったことを私の母と弟と叔父夫婦にグループラインしたけど、それについて返事は来なかった。

そして私の思いは、かつて深い絆で結ばれていると思っていた母と弟には届かなかった。
私の実家の家族は散った。そして母は自分が住んでいた本家を引き払うことになった。私たち3兄弟は帰る故郷も家もなくなった。
無口なおじいちゃんがみんなを一生懸命に繋ぎ止めてくれていたんだとその時に思い知った。

私の母は、私の実家に虐げられて生きてきたと思っている。
そして私たち兄弟は母にそう教えられて生きてきた。
おじいちゃんとおばあちゃんと父はお母さんをいじめる人だという考え。
だから、母がそのうちの誰かと揉めた時、私は必死になって母を庇うことが自分の責務だと思っていた。

おばあちゃんと父とおじいちゃんがいなくなったら誰にも文句を言われない
嫌なことを言われない されないその先に平和と平穏な日々が訪れると信じていた。

時間は じっと待っていれば問題を解決してくれると思っていた。
おじいちゃんが死んだら、平穏無事な日々が訪れるのかと思い込んでいた。

でも、それを信じていた私と母と兄弟たちが行き着いた先には
自由なんて平和と平穏なんて
その先にはどこにもなかった。

それを母と弟たちは気づいたんだろうか
人に頼らず自分自身で自分自身を生きなければ何も変わらないことを。

私が信じて歩いてきた道。考えていたこと。認識。
それらが間違えだったのだと気づいて、
私はその歩いている道の途中で立ち止まり落胆した。

ずっと信じていた
自分の妄想で出来上がっていた楽園のようなものはどこにもなかった

近道なんてなくて、もがいてもがいて歩き続けるしかない
自分の中の平和に向けて考えて考えて目の前のことを一つ一つやっていくしかないという現実と向き合わなければならない

きっとおじいちゃんは家族を救おうと守ろうと思って自分なりにできる背中を見せるってことを毎日淡々とやってくれていたのだろう

黙って行動することで自分たちに背中で見せてくていたのかもしれない
おじいちゃんは話しかけなければほとんど喋らなかったから。

でも私たちはおじいちゃんに保護されてきて、それに胡座をかいてきた。
自分自身と向き合わず、自分の責任というものを放棄していた。
自分の頭で考えて生きてこなかった末にこの結果となった。

ある時、お父さんが不倫して、お母さんがもっとおかしくなって、おじいちゃんとおばあちゃんはお父さんを面と向かって注意したり叱ることはなかった。
私も弟も何も言えなかった。
家族の誰もが
あの家の、外壁や中の綻びを見てみぬふりをしていたように
人と人の考えや気持ちを各々が思いやらなかった
家族の関係を、
起こっている事実を見て見ぬふりをしてきた結果に行き着いた先はこれだった。

床に水を溢してしまったら、床を拭かなければならないように、
そのまま放置して床にシミが残ったり傷んだりするように
私たち家族には傷が残ってそれはいつしか消えなくなっていた。

名もなき人の今は無き家族は散った。

一度ついたキズを元に戻すのが大変なように
一度歯車が狂った家族の関係を元に戻すことは大変だ
でもこれを記すことで、
その経験を
人が傷つかないための前向きな武器にして
一粒の希望の光に向かって
死ぬまでは歩いて行くしかない。
ただそれを思う。
名もなき人間が歩いてきた道。

儚き蜉蝣のように息絶えるまでは一生懸命に生きたいと願って
人のことを慮って尊敬して毎日生きたい
ただそれだけ

だけどこれを書いて落としどころがなんなのか、私はまだ悩んでいる

でも歩くしかないから


#創作大賞2024 #エッセイ部門

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