良くも悪くも自分で歩いてきたここまでの道 〜名もなき人の いまは無き家族が どのようにして散ったのか 一粒の希望の光〜 著:由日 #自分で選んでよかったこと

ライフネット生命 × note × Voicy 投稿コンテスト「#自分で選んでよかったこと」投稿文章

ピアノ

 ある日、ピアノやりたい?と母から聞かれた。多分2歳か3歳の時だったと思う。
私はピアノを知らなかったけれど、やりたいと答えた。
また違う日には、水泳、習いたい?と聞かれた。
私は水泳はどういうものか知らなかったけれど、習いたいと答えた。
習い事はたくさんやった。ピアノ、水泳、幼稚園のスポーツクラブ、絵画教室、体操教室、硬筆、習字、合唱団、、、多い時で月曜日から土曜日まで、幼稚園や小学校が終わった後は必ず習い事があった。
今思えば、母に習い事をやりたいかと聞かれて、なんでもやりたいと返していた。
しかし、どういうことをやるのかということも理解していないまま返事をしていた自分がいた。全て母の言うことを復唱していたように思う。
どういうものをやるのかを理解しないままピアノをはじめた私は、ピアノのグループレッスンで挫折して、ピアノは嫌いになった。ピアノは3歳から初めて17歳くらいまで通った。ピアノ歴は15年。けれど、私は楽譜が読めない。楽譜の読み方がよくわからなくて、何か曲を弾けるようにする時は、先生に曲を弾いてもらって、音の記憶と指の運び方を丸暗記してやっとの思いで弾いていた。小学校の音楽会とか、市内の合唱コンクールとかでピアノの伴奏をやったりもした。合唱団でもらった楽譜の中で好きな曲とかを気分で弾いたりしたこともあったけれど、やっぱり楽譜をパッと見て弾くということが私にはできなかった。自分でピアノを習いたいと返事をしたのに全く確立することができないまま終わった。

 

洋服のこと

 小学校高学年になるまでは母が着て欲しい服を着ていた。母好みの服が私のクローゼットにたくさん用意されていたし、母はよく隣町に私の服を買いに連れて行った。洋服を選ぶのは全部母で、母が楽しそうに選ぶ様子を私はずっと眺めていた記憶がある。
全然可愛いと思えないウサギの刺繍のトレーナー、音符の刺繍してあるワッペンがたくさんぶら下がっているトレーナー。どれも誰もが知っているブランドの服だった。
今日はどの服を着るのかというのも母が決めていた。ある日、黄色いふわふわした生地に白いお花の刺繍が入っているトップスと茶色いコーデュロイのような生地の足のラインが出るスパッツを渡された。当時は足が太いのを気にしていたのとそのスパッツがおじいちゃんのステテコのような感じに思えたので、着るのが本当に嫌で、しばらく嫌だと2、30分くらい部屋の中を逃げて拒み続けた。でもこれがいつまで経っても終わらない。とうとう観念して仕方なくそれを着てソファに突っ伏した日曜日を思い出す。
またある時にはショッキングピンクのキルティング生地のトレーナーとミニスカートのセットアップを渡されて、これまた本当に着たくないのだけど、着なければならないから、それを1日着ることになった日には気持ちがブルーだったことを思い出した。

 

生徒会

 中学生の時には、両親から成績表の内申点が良くなるからと、学級委員長になることと生徒会に立候補することを勧められた。勧められたらもう断るという自分の選択肢は用意されていなくて、嫌だなと思いながら学級委員長に立候補した。
私の学校のカースト的なものは下の方であった。特に可愛くもなくイケてる見た目でもなかった。一応他人とコミュニケーションは取るけれど、当時の可愛いという基準に乗っかっている人と話すのはすごく苦手だった。地味な部類だったので、クラスの子達が騒いでいて注意しなければならない場面でもいくら静かにしてくださいと言っても、イケている人たちは全然聞く耳を持ってくれない。私の他にもう一人男子で学級員長になった西尾くんは頭も良くてイケてる方のメンバーだった。だから西尾くんが注意してくれればすぐに静かになるはずなのだけど、みんなに話を聞いてもらえなくて困っていた私が西尾くんのほうを見て西尾くんに助けを求めたつもりだったけど西尾くんは知らない顔をした。
そんな記憶しか残っていない学級員長になった年、クラスの文集に載せるクラスの○○な人ランキングというものを先生が企画した。例えば、スポーツが得意な人ベスト3、明るい人ベスト3、面白い人ベスト3、おしゃれな人ベスト3。クラスのみんなが名指しで投票する。クラスの文集なので、一人一回はどこかのランキングに入れるように先生が調整する。そんな私が入ったランキングは、目立ちたい人ランキング第一位であった。不本意であった。そのランキングに入ったのは学級員長や生徒会に立候補したことが理由だった。両親の言うことを聞いただけで、べつに目立ちたいなんて全然思っていなかったのに。これは本当の私じゃないのにと思った。
生徒会に立候補しなければならなかったのも私の意思ではなかった。やっぱり両親に強く勧められて断れなかった。生徒会に立候補すると、選挙活動をしなければならなかった。朝、校門のところに立って自分の名前が大きく書いてあるタスキを掛けて登校している生徒たちに挨拶しなければならなかった。部活の朝練には参加できないし、恥ずかしいし、なんでこんなことやらなきゃいけないんだという思いが強かった。選挙活動を終えると、生徒会選挙が行われる。そこでは全校生徒の前で、自分が生徒会に立候補した思いとか自分が生徒会に選ばれた暁にはとか、そういったことを演説をしなければならなかった。
生徒会選挙で読み上げる演説の原稿は私の両親が用意した。アンパンマンにアリンコキッドというありをモチーフにしたキャラクターがいるのはご存知だろうか。アリンコキッドは小さいけど、小さな体でバイキンマンを勇敢にやっつける。そういうキャラクターがいる。私は背が低くて背の順では決まって一番前だった。だから背の低い私を小さいアリンコキッドと重ねて、両親は、自信たっぷりの原稿を書いて自慢げに私に渡してきた。
私は演説しなければならない日に、自分の体は小さいけれど、全校生徒のために縁の下の力持ちなりたい。アリンコキッドの存在を説明して、私はアリンコキッドになりたいと全校生徒の前で、全く微塵にも思っていないことを演説した。その原稿を読んだ瞬間、ざわざわっとして、クスクスと笑い声が聞こえた。その音は今でも忘れていない。そして私は別に他の生徒の役に立ちたいなんて思っていなかった。
生徒会選挙が終わって廊下を歩いていたら、私を見かけた先輩がふざけてアリンコキッドー!!と呼んできた。
そしてその後の結果は生徒会に入れなかった。全くやる気のない私は生徒会に入れないことが決まって、心から安堵した。両親は、演説はキャッチーだったと思うけど、生徒会に入ったメンバーを知って、生徒会の担当の先生のお気に入りを揃えたのねと言い訳をした。

 

高校受験

 高校受験の時も入る学校は両親が決めた。3歳くらいの時から、学区内の一番偏差値の高い公立の女子校の前を通りかかる度に、両親が、「ここは由日が将来通う学校だよ。」と言いながら車で通り過ぎていた。けれど中学3年生になった時に、その学校に入れる学力は私には備わっていなかった。一年間、全身全霊で頑張れたら引っかかるかもしれないくらいのレベルだった。両親は諦めて、世間的に格好が付く私立の学校を探し始めた。当時、私が住んでいた県の私立の学校では、何度か面接に行ってポイントを稼いで高校に入りやすくしてもらったり、通っている塾の先生に直接高校に交渉してもらい、入学の確約をもらうという制度が暗黙の了解で存在していた。父は夜、塾の講師をしていたので、所属している塾が持っている内部情報をあの手この手で利用して私の進学先を決めるために色々情報収集していた。
父が目星をつけていたのはうちから通える範囲の県内ナンバー2の私立のお嬢様女子高校と、私の成績であれば特進クラスで入れる世間体は保てる私立のお嬢様女子高校の2つであった。ナンバー2の学校のほうは私の偏差値で入るには偏差値が足りなくて、その学校の一番偏差値の低い文系のクラスに入るのも努力が必要であった。ただ、その高校は海外への長期留学制度があって、その留学制度を使って留学すればすぐ入学の確約がもらえると言われた。父は私にアメリカかイギリスに留学するよう言って、休日にその私立高校へ連れられて留学の話を聞きに行った。留学のビデオを観せてもらったり、実際にその私立高校に行ってはみたけど、特にここに行きたいという気持ちは全く生まれなかった。父は娘が留学すれば、英語は自然と身につくだろうし、海外帰りなら世間にも格好がつくから、私に留学を強く勧めた。でも私は海外に全く興味が持てなくて、イマイチこればかりは踏み切れなかった。歯切れの悪い私に愛想をつかして、金が勿体ないからもういいと言って父はその高校を諦めた。その後、同じ塾に通う私の友達が県内のナンバー3の私立の女子高校に面接に行って入学の確約をもらったという情報が父の元へ入った。その子より私の方が成績が良かったので、父はこれはいけると思ったらしい。父はその週に面接を取り付けて、その女子校へ面接に行くよう命じた。母に連れられてその学校に行った。県内の女子校の進学校である御三家に入るような学校だったので自分が入れるなんて思ってもいなかったから、また偏差値が足りないという話をされるんだろうなと思いながら学校へ行った。面接に行ったら、今まで面接に行った高校の先生よりも、その学校の先生は優しかった。生徒をよりたくさん確保したいからか、こんな私にもとても丁重に接してくれた。私は剣道2段を持っていたのと、県内の中学生全員が受ける定期テストの成績、内申書によりその高校に入学することを前もって約束するようであれば、上から2番目の成績のクラスに入れると面接で言われた。母は大喜びした。先生は剣道2段持っていることを非常に褒めてくれて、でも入学したら勉強に集中して欲しいから部活はやらなくてもいいよと話した。母はそれを真に受けて、高校に入ったら剣道はやらないで勉強しようねって先生言ってたよと帰りに念を押された。
私ももう高校はある程度格好がついて自分が入れる学校があればもうどこでもよかったので、その日のうちにそこに進学することに決めた。公立のナンバー1の女子高校には入れなかったけど、県内の御三家の女子校に入れるなんてラッキーみたいな気持ちになったことは今でも鮮明に覚えている。進学校に入れることになったので、父も母もとても喜んだ。

剣道で感じた悔しさ

 高校に進学してからも、地元の道場で剣道を続けていた。高校入学から間もない4月に住んでいる市の大会があり、高校女子と一般女子の部の団体戦に出ることになった。中学の時にはある程度の稽古を重ねて練習をたくさんして、あとは気合があれば普通に勝てたけど、一般女性と試合をして秒殺され負けた。歯が立たなくて自分の剣道が通用しないことがすごく悔しくて剣道を続けたいと心から思った。家に帰って、母に、悔しかったからやっぱり高校の部活でも剣道を続けたいとキッチンで話した。母は、何言ってんの?もう高校では勉強するって言ったじゃん。剣道部に入るのはやめなよ。と一蹴りされた。母の言うことを聞いた。でもその道を結局選んでしまったのは自分だった。


高校生になってから

 高校に入って初めて受けたテストでは順位が上位に入っていた。中学の時に通っていた塾の塾長に、みんな受験が終わって春休みは勉強しなくなっちゃうから、春休みも勉強を続けていれば高校で上位を狙えると思うよと教えてもらった。その言葉通りちょっと勉強を続けていたら上位になれた。ただみんなが本気で勉強してなかったから上位になれただけで、自分の実力ではなかった。クラスの子にゆうっちって頭いいんだねと言われて私はまんまと調子に乗った。そしてまたその一言に浮ついて勘違いした。私の通っていた高校は2年生から専門分野を分けたクラスで編成されて、それぞれの専門分野に力を入れて進学する大学に備えるようになっていた。私は理系のクラスに入りたかった。理系大学を目指すクラスか国公立の大学を目指すクラスに入るには1年生の時に一年を通して数学のテストを放課後に受けなければならなかった。2年で国公立進学か理系のクラスに進学できる枠は決まっているので、私もどうにか進学できるようにテストは頑張ってどうにか理系のクラスに進学できることになった。
高校二年生になったら、大学受験に備えて勉強しようと決めていた。高校1年生の時に持っていた趣味も全て辞めた。だけど、2年になって少し経った6月頃に中学の時に憧れていた剣道部の先輩に再会した。その時に携帯番号を交換した。その先輩から毎日連絡が来るようになって、その先輩と夜な夜な小学校の裏であったりするようになった。そのうちに私はその先輩とその先輩の仲良しグループに一時期どっぷりはまってしまい、夜の9時くらいまで先輩たちとたむろするようになった。学校へ行って授業を受けている時も先輩やそのグループのことばかり考えてしまって、今夜は私は集まりに誘ってもらえるんだろうかなんて淡い期待を思い描きながらなんて過ごす日々が続いて、勉強が手につかなくなった。もちろん成績がガクッと落ちた。そしてその夏、その先輩にあっさり振られた。立ち直れなくて、涙が止まらない時に中学の時の仲良しグループの中の友達の一人、はーちゃんが私を元気づけるために、はーちゃんセレクトの音楽を録音したカセットテープをくれた。そこには当時の最先端のビジュアル系の曲がたくさん入っていた。そこに入っている音を聴いてたくさん泣いた。そしてその音楽たちに救われた。これをきっかけに私は現実逃避する方向へ道を見つけた。けれど、振られたのだけど、私を振った先輩からはまだ連絡が来ていた。振られたのだけど、私のことを好きだと言ってくれるから、私の気持ちはゆらゆら揺れてどの道に進むか迷っていた。

大学受験

 私は大学受験は自分の力で成功させたいと言うにわかな希望を持っていた。中学生の時に通っていた塾の先生がかっこよくてその先生は数学を教えていた。先生は早稲田大学の理工学部に通っていた。先生に憧れていて、数学を頑張ろうと思っていた。
私は勉強するということの大切さを理解できていなかった。両親は世間体を気にしていい学校へという思いが強かった。一つの興味がある事柄があってそれを突き詰めたいからとかどこどこの大学へ進学するとか、何をやりたいからこういう目的で学校を選ぶとか、そういう考え方ではなかったので、自分も学校を選ぶ時は偏差値がある程度はあって進学校である程度は格好がつく学校を選んでいた。
なので私にはそれ以外で何か頑張れる理由が必要だった。当時私がやりはじめたことは自分の置かれた場所に好きな人を誰かしら作って、それを糧に頑張るみたいなことだった。私の家はみんな文系だったし、私も理系脳ではなかった。けれど数学と理科を頑張れば先生が褒めてくれるかもしれないとかそういう勝手な妄想をして、自分の気持ちを高めて本当それだけの目的で勉強した。そんなくだらない目的のために中学の高校受験の夏休みは数学と理科の問題集をたくさん解いた。私は元々理科が苦手で、初めて受けた県内のテストは40点満点中4点だった。でもその不純な動機を掲げて、勉強してみたら、夏休み明けに県の模試が40点満点中38点を取ることができた。先生は褒めてくれなかったけど、この方法は自分にとってはいい影響を及ぼすということを知って、できるだけその方法で勉強した。
私は顔が地味でお世辞にも可愛いと言われる部類ではなかった。そして私の人格的にも問題があったのかもしれないけれど、先生に話し掛けても先生はぜんぜん笑ってくれなかった。私の友達の可愛い子たちが話し掛けるといつも笑っていた。私はそれを一歩後ろからぼーっと眺めていた。そしてどうにか私の武器である不純な動機で目標を達成させるということを心の中で掲げて、大学受験で見返してやろうと思った。
だから高校に入っても遊ぶのは1年生の時だけと決めていた。1年生の時の趣味は2年生になる時にスパッと封印した。憧れの先生が通う早稲田大学に進学するために!先生に褒めてもらうために!と、張り切って2年生になった。けれどそんな俄な不純な動機は、先輩たちと出会い、先輩の影響を受けたことで簡単に崩れ去った。ただ単に私の意思が弱かった。これも私が決めたことだった。
先輩に振られてだいぶ傷心していた。毎日はーちゃんと電話してお互いの恋話をして励まし合う日々だった。はーちゃんはお姉ちゃんがX JAPANのファンで、はーちゃんも色々なバンドを知っていた。はーちゃんはマイナーバンドや小さなライブハウスに通っていていつもその話を私にしてくれていた。はーちゃんはマイナーバンドの裏事情とかバンドマンとファンの繋がりとか狙いという存在とかを色々教えてくれた。私は中学生の時からビジュアル系バンドが好きで割と売れているバンドを応援していたこともあり、はーちゃんの教えてくれる話は新鮮で面白かった。
当時、ショックスかフールズメイトというビジュアル系バンドの専門雑誌に、まだあまり売れていないバンドがバンド紹介とかライブ日程を載せるページがあって、私はいつもそのページをチェックして気になるバンドはないか探していた。当時、気になったバンドのライブ日程が書いてあって、8月26日にライブの予定が書いてあった。8月26日は失恋した先輩の誕生日だった。先輩は私を振ってからも、私のことが好きだからまた集まりに誘うよと言ってくれていた。その頃は毎日その言葉だけで生きていた。もしかしたら、また連絡をくれるかもしれないから、ライブ行ってみたいけど、26日はやめておこうと思ったのを覚えている。26日当日になったけど先輩からは連絡は来なかった。あぁ私勘違いしてしまって遊ばれていたんだなと虚しい気持ちになったのは今でも鮮明に覚えている。ライブは日にち決まってるから絶対裏切らないし、次のライブは必ず行ってみようと思ったことは覚えている。2年生の春から不純な動機を掲げて受験勉強に挑もうと思っていた私の計画は私のだらしなさであっさりと崩れ去った。そしてここからしばらく自分の心の傷と現実から逃げる道を歩むきっかけとなった、ビジュアル系バンドに通い頭の中がビジュアル系バンド一色になる日々を送ることとなる。

現実逃避への道から救われたこと そして今があるということ

 学問と何かの両立なんて器用なことができない私の学校の成績はもちろん下がる一方だった。そして気づけば両親は私から興味がなくなっていて何も言わなくなった。かつて父は私の顔を見れば、勉強しろ 勉強したのか?と毎回のように言っていた。でもいつしかそんなこともなくなっていた。
私は高校へスクールバスで通っていた。帰りの便は2便あって、1便は授業が終わってすぐ帰宅する生徒用。2便は部活や残って勉強して帰る生徒が主に利用していた。2便のバスが終点の駅に着くのが20時頃だった。そこからまた電車に乗り、自分の家がある最寄り駅まで行く。自宅の最寄駅から自転車で帰宅すると大体21時くらいになる。2便に乗った程でいけば、ライブハウスに通えると思った。そして私は好きなバンドがライブをする日にはライブハウスに可能な限り通うようになった。高田馬場AREAにはたくさん通った。父も母も私が平日にも休日にも高田馬場まで行き来していることには気づいていなかった。
この頃から私生活で物足りなさを感じていた父と母は弟たちのPTA活動に翻弄されていた。父は一番末っ子の弟の小学校のPTA会長をやり、母は中学校のPTA副会長をやるようになり結構な頻度で夜、家を開けることが多くなった。そしてそのおかげで私は自分を干渉されない自由を手に入れた。
学生時代の人間がやるべきことからはだいぶかけ離れてしまっていたけれど、私は自分で決めて自分で行動するということを手に入れた。
そのおかげで、私は色々な世界を見ることができた。世の中には色々な人と考えが存在していて、様々な価値観があるということも知ることができた。
私が通っていた高校は携帯電話を持つことも許されない、髪型も決まっている、マフラーのつけ方もルールがあるような校則の多いとても真面目な学校だった。帰りも寄り道が禁じられていた。なので、私みたいな生徒は風気を乱す不良な生徒であったと思う。そういう立場となってしまうことも私自身の行動が決めていたことだった。でもそんな私に対して周りの友達はとても優しかった。友達のそれぞれが自分のあるべき姿をきちんと持っていて芯がある子が多かった。そんな友達は、列を乱す私のことも私は私として見てくれて、軽蔑することなく仲良くしてくれた。理系のクラスだったので、周りの友達は薬剤師とか看護師とか獣医とか、理学療法士とかを目指していた。みんなそれぞれに理系の夢があった。私は理系のクラスだったけど、いつからかもう自分に素直になろうと決めていた。憧れの塾の先生が通う早稲田大学理工学部は諦めて、自分のやりたいことを素直にやろうと思うようになっていた。そんな私はファッションデザイナーかパタンナーになりたいと思うようになっていた。みんな理系の大学を受けていたけど、結局私は不純な動機で理系のクラスにいたので、服飾系の学校に進学することに決めた。担任の先生も両親も私の選択にがっかりしていたけれど、その時に自分で決断してよかったと思う。服飾の学校に進学したことで、人として尊敬できる友人や恩師、人生の先輩方に出逢うことができた。アパレルの技術職で仕事をするようになり、主人と出会い、結婚し、子供とも出逢うことができた。紆余曲折、時に脱線してしまうこともあったし、間違った道を自分で選んだこともあったけれど、それも結局は全部自分で決めてきたことだった。でもその良くも悪くも自分で決めた道を通ってきたから今の自分がいる。今の自分は誰を幸せにできているのだろうと思い悩むこともあるけれど、歩いてきた道を通らなければわからなかったことやそこから学んだ事がたくさんあった。だからこれで良かったのだと思う時がある。まだ道半ばだけれど。
そして、これから自分がどうなるのかは、また自分がどの道を歩いていくか自分自身が決断していくことで、一粒の希望の光を見つけることができるのだと思う。だから諦めずに生きていきたい。

良くも悪くも自分で歩いてきた道は、他人に決められたことも自分で決めたことも結局は自分自身で決めたことなのだと思う。
人から見たら私が歩んできた道はきっとくだらない。自分でもそう思う。けれどここまでの道はこの道でなければ今の私はなかったのだと思う。

この経験を生かして、今度は自分以外の、人のことを思いやり行動できるようにしていきたいと思う。


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