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静謐
ある日のこと
意識を集中する中で大切な言葉と出会えたお話です
一ヶ月間の激しさが流れる
全身で集中して立ち向かった
静まりかえった夜が更け、日付が変わる
無音で喝を入れて現場をこなす
その間、気をそらすことなく、その場をおさめる
仕上がりを見ると なんと静まりかえっていることであろうか
激しさと静けさは同体なのかも知れない
一つの庭が、また産まれたのであった
私はその様を見て何かを感じそうになっていたが、じっくりとその場の思いにふける暇もなく、埼玉県の現場から福井県へと向かっていた

たどり着いた先は密やかにたたずむ、禅宗の修行道場である
参道や庭園のしつらえに伴い平成二十四年より、この道場で仏縁をいただいている
いつもの様に奥の間に通され、御住職を待つ事となった
そこには、重く装丁され『庭の意匠』と題づけられた一冊の大きな写真集が用意されていた
文字を読むのを面倒がる私に、御住職が暇つぶしにと写真集を支度してくださったのであろう
表紙をめくると序章の題字が目に入った
庭の恵み 竹西寛子
私はそのまま、吸い込まれるように読み始めてしまった
もしも集中力の強めによって、思考や思想、忍耐などにいっそうの弾みがつき、深化や増進がみられるとすれば、静謐は、人間が人間らしさを守っていく上でかけがいのない援けになる。しかし、受け身で恵みにあやかるような静謐の経験は、まだ序の口なのかも知れない。より切実な希求には、受け身でなく、自らが作り手となる立場があるはずで、意思と感受性の希求によって静謐を作り出す「間」の演出がそれに当たる。
セイヒツと言う漢字の、よみがなも分からないまま、この一文に引き込まれた
これだ!
これだったのだ。
何という。この御寺のはからい
私はこの一文に出会えた感動をつい先日まで繰り広げられていた現場と重ね、
噛み締めている
当然、私のような身の程では、この域に達する事はできていないが、
気を落ち着かせ、五感を研ぎ澄まし、この静謐とやらを味わってみたいものである