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心象穏やかならぬ執着

ふと頭をよぎるものは大概赤っ恥かいた記憶だと、まるで人類に備わった抵抗不可避なバグのように全人類の共通項がこの上なく嫌なことなのはいつの時代に起因するんでしょうね。
忘れたい記憶なんてものは、忘れたいと思った時点で強く脳に刻み込まれて未来永劫忘れられなくなってしまうとはよく言ったもので、執着を燃やせば燃やすほどに忘却の岸からは遠ざかってしまうというジレンマは、怒りと飢えを象徴とするストレス社会に対するアンチテーゼなのかもしれないと具体的な説明をしないままに遺しておきます。

などとよくわからない主張を冒頭に、全く違う切り口から語りを続けようと思うのですが、そもそもは嫌いな食べ物の話でもしようかと思い筆を執ったわけです。
それでは勿体ぶらずにズバリ、トマトを口にすることができない人種なわけでございますが、どれくらい嫌いなのかと聞かれるときはいつも間髪入れずに吐いちゃうからねと返すお決まりになっております。
みんなも嫌いだよね、トマト。

続く会話として、加熱したら?ケチャップは?というものが頻出ではありますが、形が無くなればいけるというのが正答となる次第です。
要は加熱により変容した成分なら摂取できるといったところで、加熱しないままに残る臭みやらエグみやら食感やらが全てNo good.というワケ。
とかナントカ回りくどい言い方をしているけど単純明快拒否反応ってやつで、食べるどころかニオイでもヤバい生活を物心ついてからもう25年以上やっており、だからどうしたという情けない話です。

世知辛い世間の反応は冷たくも過激なもので、情け容赦なく僕に食べさせようとする勢力が天敵中の天敵。
タダでさえ瀕死の状態からウルトラスーパーオーバーキルを喰らった小学1年生の1年間はもう忘れられない地獄の記憶です。
以降9年間の有り難い昼食の心象は悪く、嫌いなものは徹底的なまでに受取拒否をすることになったという悲しいお話です。
美食志向があるので、嗜好に依らず美味は善、不味は悪として極端な思想を生まれ持っていたことは、配給というシステムとも適合しにくいものだったと今となって理解してはいるのです。

こうしてトマトに対する悪感情に対してこの上ない執着をしてしまったことは人生にとって非常にマイナスです。
この執着は執念じみており三つ子の魂百まで、脊髄反射で五感が捉えた瞬間に拒否してしまう最悪な事態となったまま齢29を迎えるに至ります。
料理の道に進めなかったのも、トマトに近寄れないからだったりするわけです。
だってドコの料理でも使うから、、、

もし今記憶喪失になってすべての感情にリセットが為されるのなら、好き嫌いはなくなるんだろうかと有り得てほしくはない疑問が浮かんできます。
少なくとも執心していた忌々しき記憶から開放され、破茶滅茶に嫌いだったところから苦手だけど食べれるくらいには戻れるんじゃないのかなと、現実的でありそうかつ想像の域を出ないままに発言しておきます。
食事に限らず嗜好を作り上げるのは記憶の積み重ねですから。
思い出はスパイスとはよく言ったものです。

感情は味覚に影響するのかしないのか、みたいな話がありますが答えは自分がよく知ってるハズで、これがまた食材レベルでの美味不美味が判断し辛くさせる厄介者なんですよね。
そういった素材と感動と経験、複合的に相まった要素を孕んだ食事という行為は今日からもまだまど積み重ねていく必要があるわけです。
折角なら毎回を感動的な事件にしたいものですね。

僕のトマトに対する執着は伝わったでしょうかね。
嫌悪の衝撃は人生の根幹をも揺るがす執着になってしまうという悲しいストーリー、忘れられたらどんなに幸せなのだろうか。
記憶に強く刻まれたBad feelingsは逃れられない底なし沼。
上手くつきあっていくための落とし所を見つけられたら、心に平穏が訪れ夜は明け霧は晴れ雲は散り大地に光が差すんだとかなんとか。
皮肉にも個人主義ナイズドされた集団主義社会と戦う良い教訓です。
忘れるなんて無謀なことはヤメヤメ、未来永劫付き合う自分の事くらい容易く許してさしあげます。


よくもまあ食べ物ひとつで長々と、、、


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