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『学校と猥談(2)』2024-11-30

 なぜ「学校に関連付けること」が性嫌悪の大義名分になるのだろうか。

 子どもを守りたいから――というのは端的に嘘である。
 前回に例示した様々な「学校に結びつけることによる表現への排撃」は、いずれも生徒・児童に実際の危険性をもたらすものではない。
 AVのドラマパートのみを、学校と敷地を共有する公園で撮影することでそこの生徒に危険でも発生するだろうか。
 学校事務の近藤顕彦さんが、知人(おぎの稔議員)にAVをプレゼントすることで彼の学校の生徒が何かの危険にさらされるだろうか。

 そう、学校から「性」に絡むものを排斥しようとする人々は、別段実在の子供を守りたいわけでも助けたいわけでもない。
 というか「学校から性に絡むものを排斥する」場面でなくとも、人間という動物は基本的に「子供を守る」とか「助ける」などという理由で動いていないのだ。

 もしそんなことで人間が動いているのなら、老人たちは自主的に自分のためではなく、子供世代のための投票行動をするはずだから「老人の票が多いから若者や社会全体ではなく老人のための政治が行われてしまう」シルバーデモクラシーという社会問題も、そもそも最初から発生しないはずである。
 実際には老人たちは、自分達が一円でも得するために、1秒でも自分の命を延ばすために、1カロリーでも楽をするために、子供の全てを差し出しているといって過言ではない。

 また、我々が普段フェミニストのキャンセルカルチャーの現場でひっきりなしに目にしている「表現叩きを広めるためにターゲットの表現を、子どもでも見られるSNSで拡散する」という矛盾行動も起こるはずがない。

 性嫌悪者たちは、本心から子どもを守る気などまったくないのだ。

 ではなぜ、それが大義名分となるのか。
「子ドモノタメ」を振りかざせばそれが正義になるからである。

「何を当たり前のことを言ってるんだ」

 うん、これだけではただの当たり前のことだ。
 というか当たり前を超えて、「Aが大義名分なのは、Aを振りかざすと正義になるからだ」というのは単なるトートロジーである。
 なぜ、それが正義になるような風潮が創られたのだろうか。を考えなければならない。
 今まで私がこのnoteやSNSで書いてきたことと重複する部分もあるが、まとめることとしよう。

 1つには、ほんの数十年前まではほとんど全ての男女が、いずれ「子どもを持つ親」になっていたからである。

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