「SHE SAID/シー・セッド その名を暴け」鑑賞後メモ
90年代以降のハリウッドにおいて数多くのヒット作を手がけていた映画プロデューサーのハーヴェイ・ワインスタインによる性的暴行事件を告発する記事が「ハーヴェイ・ワインスタインは何十年ものあいだ性的嫌がらせの告発者に口止め料を払っていた」という題とともに2017年10月5日のNYタイムズ紙に掲載された。それはやがて全世界に波及することになる# MeTooムーブメントに火をつけるきっかけとなり、実名とともに過去の性的被害をカミングアウトする女性の数も増えていった。今でこそ女性による発言や表現活動に対しての注目度は高まっているようにも感じられ、少しずつそれがいい意味でも悪い意味でも当たり前なもののようになっているけれどそこに至るまでには想像以上にハードな過程があったのだということが「SHE SAID」では描かれている。
まず、実名で被害を告発するという行為が女性にとっては比喩ではなしに命懸けの行為になりかねないということだ。勇気を振り絞って声に出してみたところでもみ消されてしまうことが多いのは、この社会が男性優位的な構造とともに成り立っているからで、その象徴としても序盤に2016年のトランプ就任の報道が描かれている。NYタイムズ紙の調査報道記者であるミーガン・トゥーイー(キャリー・マリガン)は当時の大統領選の最中にトランプからセクハラ被害を受けたという女性からの証言を得て、それをもとに記事を書くもその直後に何者かから脅迫を受けてしまう。その後は周知のようにトランプによる統治が始まっていった。
トゥーイーと同じく同紙の記者であるカンター(ゾーイ・カザン)はワインスタインの元で働いていた女性が不自然な形で辞職している例が複数ある事実をつかみその周辺を調査していくものの、なかなか物事の核心に迫ることができない。やがて被害を受けた旨をオフレコ(記録に留めないこと)前提で少しずつ語ってもらえそうなところまで行き着くも、そこにおいて被害女性たちは法的な拘束力を持った秘密保持契約書や口止め料により告発することがほぼ不可能な状態に長い間追いやられていたという事実をトゥーイーたちは知ることになる。この作品はワインスタインというある種象徴的な存在を通してハリウッドや、そもそもこの世界全体を覆っているともいえる歪んだ社会構造を炙り出していくスケールのものであるということがこの辺りから鮮明になっていく。今作を監督したマリア・シュラーダーはNetflixの「アンオーソドックス」を手がけていたひとで、そういえばこの作品もかなり厳格なユダヤ系の家庭で育った女性が生まれ育った場所を飛び出すことで自分自身を外側から見つめ直す物語ではあったのでそういった面では今作もその作風に準じた構造を伴ってはいるだろう。
劇中においてさりげなく描かれているのが道端で歩くトゥーイーとぶつかりそうになった直後に「あ、すみません」ときちんと謝るアフロ・アメリカンの青年とバーでナンパ男を怒鳴り倒した直後に目の前にいたカンターに謝るも「謝らないで」と言い返す彼女との対比で、これは要するに「リスペクト」しなさいよってことだよな、と。たしかに、作品を最後まで観てみるとその10月5日の記事を出すことがどれだけ大変な、計り知れない恐怖や不安を伴うものであったかは身に染みて感じられるし、よく実現させられたなとしか思えない。トゥーイーやカンターのような取材を行うときの誠実な姿勢とか頭の回転の速さであったり、やがては最初に実名を出すことを決断したローラのような勇敢さなど、自分は持ち合わせていない。実際、普通に生活してるだけでも何人キレさせたかもう覚えていない。
これを書いている自分は男なので、どうしたってこの社会構造に加担している側面はあるだろうから正直ずっと複雑な気持ちで観ていた。基本的にはストイックなジャーナリズム映画なのでわかりやすいカタルシスもほとんどないし、音楽とかもウェルメイド感というか、すごいお堅いカンジだ。それなりに年齢だけは大人になってきたものの心の中ではどこかでKOHHのリリックの如く「可愛い子は今も好き」みたいな単純なことばかり考えてしまう脳みその構造であることは変わりないので、そんな幼稚な人間には厳しさがビンビンに感じられる129分間だった。そんなくだらない人間でもこういった作品に触れることで女性がこの世界で生きるうえで突き当たることが多い困難さのようなものであったり、普段生活している社会の構造なんかを相対化して考えてみたり見つめ直すような機会を得ることは可能なので、それくらいは今後も続けていけたらなとは思う。
以下に自分が参考にしたものを添付しておく。当たり前なのだけれどこちらの方が勉強にはなる。
この記事が参加している募集
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?