「セイント・フランシス」鑑賞後メモ
本編の冒頭で自殺の話をする男とラストでドアを開けるフランシスの姿は対になっており、その両極の間で主人公のブリジットは常に揺れている。死と生、ノスタルジーと前進の間を泣きながら笑って生きる。その姿が現代の家父長制的なシステムの中でタフに生き抜く女性たちに重ねて描かれる。男には知り得ない痛みと孤独がここにはあり、「ここまでやってあげたのだからいいだろう」という境界はただの都合のよい幻であることを緩やかに、しかし鋭く突きつける。
序盤からこれでもかというほどに「血」が映される。基本的にはインディ映画的なゆったりとしたトーンやマナーで物語が進行していくが、かなり直接的、具体的に問題提起がなされてもいる。笑える場面が多いけれどそこには痛みが確かにある。繰り返し描かれるブリジットが個室トイレに座っている姿は、(この文章を書いているひとりの男にはどうしたって知り得ないし、想像し続けることしかできないであろう)孤独を象徴的に表している。
育児をする女性たちも当たり前のように個人的な感情を抱えている。それを吐き出したり共有することを難しくしているのは、社会が押し付ける母親像や女性像というものがあまりに高潔なものであるということに一因があるのは間違いないだろう。そのイメージを喚起し続けているのはやはり家父長的な性質を持つこの世界の構造だろう。
疲れたり頭にきたりするのは当然であるし、「過ち」を抱えているのは人間の特徴のひとつであるはずだ。だからこそブリジットが奮闘する姿やフランシスの自由気ままな振る舞いにはチャーミングさがあるのだし、その点は大人も子供もきっと同じはずだろう。
この世界にはまだ「解決」がない。ブリジットのように揺れ動き続け、戸惑っている人々が数えきれないほど存在している。そこには一般的に「過ち」と見做される振る舞いもあるかもしれない。だがその根底にはそもそも歪みきった社会の構造があるわけで。だからこそ、そんな時にせめてもの社会への反抗として「過ち」に手を差し伸べることが出来ればそれは素敵なことなのかもしれない。なんなら自己紹介付きで。
この記事が参加している募集
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?