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「誰のものでもない」という感覚
昨日、図書館に行った時に村上春樹さんのエッセイ「職業としての小説家」を少し読んだという話をした。
ちゃんとメモを取らなかったので(後悔している)、
文章を引用することは出来ないけれど、最初の方から印象に残った話がある。
「画家や音楽家などは、異業種から始めた人達になんやかんやと言うことが多い。縄張り意識が強い。その点、小説家はどこの誰が文章を書いても騒ぐことは無い。」という旨の内容だった。
(要約なので少し強めに書いている。)
何故なら、文章は誰にでも書けるから。
ただ、小説家として長く書き続けるには一種の才能が必要であり、それがない人達(頭の良い人たちと著者は表現していた)は1冊か2冊書き上げたら飽きてほかの分野へ行ってしまうものだと続けていた。
ここだけでも、蜘蛛の巣のようにあちこちに思考が伸びていくのだけれど、今日はそのうちの1つについて。
「誰のものでもない」という感覚。
生きていくうえで、これがものすごく大事なんじゃないかなと思ったのだ。
先程の部分を読んで、私は「小説家は文章が誰のものでもないことを分かっている」と感じた。
誰しも、何かについて詳しくなったり、扱えるようになったり、お金を貰えるようになったりしたら、少なからず「これ(物や技術や知識)は自分のものである」と考えてしまう節がある。
そこに至るまで何らかの苦労や努力を重ねているからだろう。当たり前と言えば当たり前の感覚だ。
それでも、自分のものと認識してしまうと途端に視野が狭くなってしまう。
誰にも渡したくない、とか、この分野において自分より詳しい人がいてはならない、など、暗いか感情が出てくることもあるかもしれない。
いやいや、自分で買った家具は自分のものでしょ、と言う人もいるだろう。
でも本当にそうだろうか。
自分が生きて死んでも、物はそこにあり続けて、また誰かが使うことになる。
そのサイクルについては私自身よく書いていたけれど、これはものに限らず知識や技術にも言えることかも、と思った。
目に見えるものも見えないものもあらゆることは、時代を経て様々な人を巡っている。
自分もそのサイクルの中の1部に過ぎない。
言い換えると、全ては自分が生きている間だけ借りているものである、ということ。
そして、死ぬまでには何らかの形で次に回しておくのがいいのではないかということでもある。
なんだかよく分からない文章を偉そうに書いているなあ、と客観的に見て恥ずかしくなってきた。
でもこう考えることの何が良いかと言うと、
今手元にあるものを大切に扱おうという気持ちになれることだ。
物が1番わかりやすいけれど、知識も技術も同じ。
自分のところで留めずに、次に渡そう、誰かに回そう、よりよく使わせていただこうと思える。
自分の姿かたちさえも魂の入れ物と捉え、大切に扱いましょうと言う話を、昔どこかで聞いたことがある。
そうして傲慢な気持ちがなくなれば、もっと世界は優しくなるのかもなあ。
不穏なニュースが流れる中でぼんやりと思う。
こんなところから話しても何にもならないとも思うけれど、せっかく文章を書くことが出来るので書いてみる。
そんな、思考そのままの文章でした。
おやすみなさい。