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記録:あいちトリエンナーレ―芸術は暴力だ―

先日,あいちトリエンナーレに足を運んだ。

なにかと話題になっているあいちトリエンナーレ。それがどのようなものなのか,芸術は専門外だが見るだけ見てみようという軽い気持ちで電車に乗り目的地へと向かった。お昼過ぎに愛知芸術文化センターに到着し見て回った後,夕方から四間道・円頓寺の会場へ向かった。見学を終えたのは,午後8時前だった。

どの作品も,『情の時代』というテーマにふさわしいものであり現代芸術とはこういうものなのかということを押し売りされたような感覚になったのが第一印象だ。

私は,現代芸術がどうゆうものであるかははっきりと理解していない。だが,その中で今回感じ取ったことを記録するためにこうして今PCに向かっている。


見学する中で感じたことは,「芸術は暴力だ」ということだった。

戦争,政治,テクノロジー,ジェンダー,死,差別,文化

どの作品にも”今”に対する違和感や憤り,恐怖,恐れなど負の感情が強く感じ,私はそれに圧倒されるばかりですべてを見終えるころにはくたくたに疲れていた。

あいちトリエンナーレに出展されている作品すべてにとても強い圧力を感じた。それは,現代社会の問題や課題,違和感について感じ取って表現したからだ。

―現代芸術とは,”今”に対する違和感を呈示するもの―

そうすることで,新しい芸術という文化が発展していくのだろうと今回の見学を通して感じた。現代芸術が”今”に対する違和感を定義するものならば,その違和感が人にこれほどまで狂気や暴力性を抱かせる”今”というものを変えていく必要があるのだ。


一方で,全体として作品の中に”品格”というものがあまりないように感じられた。

それはなぜかわからない。

ただ,その作品が放つ暴力的なオーラの強さに圧倒されるものの,その暴力にひれ伏すだけしかできない自分がいたという事実の中にそのヒントが隠されているのではないか?これについて,もう少し深く掘り下げてみようと思う。

ここで打ち明けるが,正直な感想を言うとあれらの作品を私の中の”芸術”というカテゴリーに分類して良いものなのかは疑問が残ってしまう。

なぜならば,これらの作品に”品格”や作者のというものを感じなかったからだ。

その一つの要因として,映像作品の多さが挙げられる。

今回,あいちトリエンナーレに出展されていたものの多くに映像作品があった。映像は,平等に人の時間を拘束し映像を制作者が伝えたいことを視聴者に押し付けるという性質を持つ。そのため,視聴者が作品を通して感じたことに思いを馳せる”間”さえも奪ってしまい受動的な体験だけが残ってしまう。この”間”を与えないことは,作者と視聴者との間にコミュニケーションが生じえないこととつながる。この情報の一方向性こそが暴力であり,”品格”の欠如だ。

この品格の欠如こそが,”芸術”とは感じなかった要因の1つであろう。

もう一つ要因として挙げられるのは,暴力性が強いことから生じる野蛮さの中にある人間性の欠如―人間としての矜持の欠如―だ。人を定義する要素の一つとして,理性が存在する。これまでの世界は,人間の理性を十分に発揮してきた世界だ。しかし,トランプ政権台頭を筆頭に理性で押さえつけてきた人間の本能―動物性―があふれ出し情動的な部分で世界が動いている。このような空気の中で,理性を保ち続けることは難しい。このような現実がアーティスト達の暴力性を扇動させた。奇しくも,今回のテーマは『「情」の時代』である。

芸術とは人間の持つ『情』を表現しているものである。怒りや滞り,悔しさ憎しみ,憎悪という『情』も喜びや悲しみと同様に『情』であものりその間に優劣はない。しかし,それを表現する手段として「暴力」が選ばれるのであれば,それは理性を持って対処すべきものである。これが暴力という動物性と理性を持ち合わせている人間こそができることなのである。



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