jizoku
SDGsなんて言いながら持続可能な生活は流行りすぎていて、生活習慣の中に当然のように組み込まれ義務として訴える人も大勢見るようになった。単純に「すごいなあ」と。俺は自分と家族の世話だけで精一杯だからそう考えられる時間は日常生活で少ない。エコであることは大切だろうし、環境問題に対する問題の解決も大勢の協力が必要だからもう少し真面目であるべきだ、とは思う。でも、実際どうなのか。中々良くならない経済、頻繁の災害などで世間は結構目まぐるしいが、金のため、自分のためでなく純粋に地球のために皆努めているのか。
持続可能という言葉だけで言えば、俺は自分周囲の生活だけでもそうなるように努めている。芯は、多くは求めず無用なトラブルも起こしたくないという持続で、環境というよりも、家族が健康で、些細でも趣味が行えればという俺の幸せであり、「成り上がりてえ」みたいな気持ちは全くなくなった平坦でもある精神の持続のこと。いつなれるか分からないものの浪費よりも、今できる「楽しいこと」に取り組んで気分は穏やかである時間を優先したい。家族の健康もそのためのもので家族思いの立派な父というわけでもなく、不安が発生しない、「俺」がなるべく持続できればいい。
現状への満足は停滞の始まりだなんて言うけれど、満足できれば何もいらなくないか。「ゴールじゃん」と思う。元々たいそうな事せずともすぐに幸せにはなれて、幸福であれば大抵のことはどうでも良くなり、大変そうなことは手放し諦めた方が手っ取り早い。もちろん義務的なものは行うし最低限他人にも気を遣っている。だけれど、それ以上を求められる時には無視をして自己のペースを確認する。恥ずかしながら若い頃には「お金持ちになろう」なんて言葉には散々振り回されてきた。結局それは成る人が成るのであって、そもそも金自体好きじゃないと苦痛が続くばかりという経験はできた。
お金は幸せになるために得たいと思う。でもそれまで苦しければ意味無いな、と感じるようになって今すぐの幸せを選ぶようになった。そして「俺」が持続してさえいれば死ぬまではずっと幸福であることに気づいて、できることしか、自分が楽しいと思うことしかなるべく行わない生活が始まった。
緩やかになっている。自分を考える時間が増えた。生活は成り立ち、意外と「適当」により社会は構成されていて、人間関係も結構適当だということにも気づいた。
世間のためにと真面目でいることも案外必要ないことがある。人一人の力なんて大したことはなく、そもそも持続しないと影響もでないことが人生の殆どであることを考えると「まずは自分から」という考えもあっていい。そうすると依存も少なくなり「自分」が立つようになる。結局誰かの役に立っている。可能な限り楽しく。今の所、その持続可能を俺は目指してる。